原田神社の玉垣について考える
原田神社にはこの境内の敷地を囲むだけでなく、裏参詣道にも幾つもの玉垣があります。それぞれがいつの時代のものかは分からないが、多くは明治時代に入ってからのものだと思われる。

そもそも原田神社の敷地は現在の広さよりももっと広く、その広い敷地を囲むように玉垣が置かれていたという。明治後期になって箕面有馬電気軌道(現在の阪急電車)の開通と、岡町駅(当時は岡町停留所)が神社境内に置かれたことと、商店街の発展に伴い敷地を譲渡したことにより、神社の境内が狭くなると同時に玉垣も後退させたとのことです。
長年の風雪にさらされて判読できなくなっているものもあるが、それらのいくつかを検証してみたいと思います。

2018年10月8日 更新

2018年12月9日 資料および記事を追加して更新
平日の昼間は参拝する人も少なく静かな境内
境内の敷地を取り囲むだけでなく、敷地内にも立ち並ぶ玉垣。
これらの多くは明治時代に入ってから作られたもので、明治新政府が布告した「神仏分離令」による「廃仏毀釈」の気運の高まりから、それまで庶民の娯楽としての「お寺参り」が「神社参拝」へと移り変わった結果、多くの寄進が集まったものと思われます。

箕面有馬電気軌道(現阪急電車)開通(明治43年)間もない頃の岡町停留所と停車中の車両。原田神社の神苑の中に土を盛り上げただけのホームには、駅舎も切符売り場も改札口もありません。
防護柵もなかったので通行人との接触事故も起きただろうと思われます。

上りホームの東側に神社の玉垣が並んでいます。ホームの際まで玉垣が並んでいるところを見ると、当時の原田神社の敷地は現在のそれと比べると倍以上の広さがあったようです。
そして、当時の玉垣の間隔が現在のものと比べ広かったことがこの写真で判ります。
原田神社の東側の能勢街道沿いの鳥居をくぐったところに常夜燈があります。
明和四丁亥(ひのとい)九月と記されている。1767年、おおよそ250年前に建てられたものです。
1868年が明治元年なので明治維新よりも100年前に建てられたことになります。

この常夜灯は当地桜塚村の庄屋「奥埜庄兵衛」が寄進したものです。
常夜燈は夜間の安全や「お百度詣り」にくる人のために明かりを燈したもので、昔は蝋燭や菜種油で燈したそうで、その油代も寄進者が負担したとのことです。ここから500メートルほど東へ行ったところに「桜の庄兵衛」という名のギャラリーがあって、そこが江戸時代の庄屋奥野家の屋敷を改修したものです。この時代、一般庶民は苗字を名乗ることは出来なかったが、一握りの有力な商人や百姓は苗字を名乗ることができました。奥野家はその一つであります。
我が辻村家に所縁のある人物

左から西村卯三郎、稲津留吉、辻村伊三郎、この3人は実の兄弟です。それぞれ辻村佐兵衛(4代目)の三男、次男、四男で、幕末から明治初期にかけて生まれた人物で、四男伊三郎は明治七年生まれ、私の祖父です。
彼らのことは「伊勢講勘定帳」のページでも触れたが、稲津留吉、西村卯三郎の二人は養子縁組によって姓が替わった人物で、それぞれ明治新政府が発令した「徴兵令」によって、兵隊にとられる年齢に達する前に他家との養子縁組をすることで徴兵を逃れたと推測しています。

明治6年に布告された「徴兵令」では満17歳から40歳の男子全てが兵籍に登録され、その中から「免役規定外」の者が徴兵されました。その「免役規定」には跡取りの息子、または跡取りの孫、他家に養子に行って、養子先の跡取りとなった者が兵役を免れることができました。それを利用したのであろう。父親佐兵衛の考えで行ったと考えられます。

そもそも佐兵衛には「佐太郎」という長男がいました。したがって、二男三男が徴兵されることは充分予想されていたので下の息子を養子に出したのであるが、思わぬことに長男が29歳の若さで病死する。すでに二男三男を養子に出した後だったので、家督は末っ子で四男の伊三郎に回ってきたという経緯があります。

この徴兵逃れを目的とした養子縁組については「伊勢講勘定帳に見る勝部村庶民生活誌」の中で詳しく述べております。
「伊勢講勘定帳に見る勝部村庶民生活誌」のページへ

卯三郎の跡取りが「西村朝五郎」で父の従兄です。父とは10歳ほど年上で、父は実の兄のように慕っていた人物。
世代が代わってからは疎遠になり、その後ほとんど付き合いはなくなりました。
もう一人、刻まれた文字が読みにくくなっていますが、「辻村末次郎」の名前が確認できます。
この人物は佐兵衛の弟の息子です。甥に当たります。佐兵衛には兵吉という弟がいますが、この兵吉の3人の息子の一人で末っ子、「末治郎」と書かれているものもあります。上の二人の兄たちは生涯勝部で生活していきますが、末次郎は勝部から出て他所の地域で人生を送ったようです。現在はその所在も知れず、子孫の方々との交流もありません。
「北尾新聞舗」について
「北尾新聞舗」の玉垣の存在

岡町商店街の途中から原田神社に入る裏参詣道という小さな通りに「北尾新聞舗」と刻まれた玉垣があります。この「北尾新聞舗」が原田神社とどのような係わりがあったのかを知ることは困難なことでありますが、かつての同業者である私にとってはおおいに興味のある存在です。

ここではこの「北尾新聞舗」について少し書いてみたいと思います。
同業者の一人でナウカ(株)の鳥居万恭氏の「洋書店よもやま話」によりますと、江戸中期より大阪の心斎橋界隈は大坂の出版文化の中心地でありました。当時船場から島の内にかけて心斎橋周辺には300を超える書店が軒を連ねていたという。その中に漢籍を専門に取り扱う「北尾万助書店」が安土町にありました。

当時の出版形態は版元と書店が一体化していた。
要するに編集、出版、印刷、製本、販売が一体となっていて、現在のような出版と印刷、販売が分業されてはいなかった。そして、それぞれの地域ごとに出版事業が存在する時代で、現在のような東京の神田で出版されたものが大阪の本屋の店頭に並ぶようなことはなかった時代でありました。出版流通が全国に行き渡る時代ではなかったということです。

「浮世草子」や「人形浄瑠璃」で人気の井原西鶴や、彼の11歳年下で歌舞伎や浄瑠璃の作者近松門左衛門の活躍で、大坂の町人文化が花開いて、大坂の出版文化が隆盛を極めた時代に北尾万助書店が安土町心斎橋に店を構えていました。

その後時代が流れて幕末明治維新期には「北尾禹三郎」の名前で「大阪繁昌詩」「南洲遺稿」「英和書翰」といった書物が出されている。さらにその後、明治12年に「大阪朝日新聞」が創刊されると、それの出資者の一人でもあった北尾禹三郎が、朝日新聞の社主村山龍平より頼まれ、大阪での朝日新聞の販売を引き受けることになり、「北尾新聞舗」という会社を設立したわけです。

したがって、この玉垣は明治12年以降に作られたものと解釈できます。
大阪で「朝日新聞」が創刊された当時はまだ輸送手段も少なく、人の手によって歩いて配送されていたのだろう。第一号が発刊された時は江戸堀南通1丁目に本社を置いていましたが、半年後には大阪西区京町堀1丁目に移転しています。京町堀にあった朝日新聞社から岡町辺りまで配達するには「中之島」「淀川」「神崎川」と幾つかの川を渡ってこなければならず、配達に相当な時間と費用が掛かったものと推測できます。

 「洋書店よもやま話」について・・・

前述のナウカ鰍フ鳥居氏による「洋書店よもやま話」の記述内容については、北尾禹三郎の曾孫にあたる方から、『記述内容は正確なものではない』との指摘を受けました。

このことについては今後詳しく調べていきたいと考えております。

大正末期の大阪安土町界隈と横堀川周辺の町名を表した地図
ここの境内には少なくとも2つの「北尾新聞舗」の玉垣が存在します
明治28年の北尾新聞舗の広告、洋服を着て自転車に乗って新聞を配達している姿が描かれています。この頃すでに「東京朝日新聞」も販売していました。
「朝日新聞販売百年史」より

現在の阪急電車(箕面有馬電気軌道)が開通した後、岡町住宅経営(株)は周辺の宅地開発に力を入れ、岡町駅西側の土地を宅地として売り出しました。駅周辺には豊中村役場、裁判所、警察署、郵便局、学校などがあり、豊中地域の行政の中心地だったことが判ります。おそらく北尾新聞舗はここを豊中地域における新聞販売の拠点とすることに決めたのだろうと思うのです。

明治12年の創刊当時、朝日新聞社は江戸堀に僅か6畳3間の狭い社屋でスタートし、発行部数も1000部内外でしたが、その1年後、明治13年には1万部を突破したと「朝日新聞販売百年史」に述べられています。
創刊当時の朝日新聞社主村山龍平は僅か29歳。但し、実質的創業者は木村騰(のぼる)24歳だったとも述べられています。

「朝日新聞社史」によりますと、初代社主村山龍平は伊勢田丸藩士の家に生まれますが、明治に入って版籍奉還後父親が士族の身分を捨て平民となり一家をあげて大阪に移り住み、明治5年に京町堀にて西洋雑貨商「田丸屋」を開業します。

同じころ、京町堀の町内に醤油醸造業の泉屋木村平八がいて、その長男木村騰(のぼる)は家業を継ぐ気が無く洋品店を経営していました。村山は木村家父子と親しくなり洋品店を合併して「玉泉舎」として共同経営に踏み切ります。

明治10年の西南戦争を契機に新聞事業が脚光を浴びるようになると、木村騰(のぼる)は新聞をやりたくなった。
しかし、父平八に反対され村山にこの話をもちこんだ。そして、たっての頼みに村山は発行願いに「持主」として署名することを承諾した。というのが朝日新聞創刊のいきさつで、3か月後には持主名義変更願いを提出し、村山は名義上いったん身を引いている。
創刊当時売捌き所を大阪に3店、神戸と姫路にそれぞれ1店を指定しています。
そのうちの一つに「北尾禹三郎」の名前が記されています。
のちに「北尾新聞舗」として販売を請け負うことになります。
(「朝日新聞販売百年史」より)
北尾は朝日新聞創刊から僅か数か月で取扱い部数が急激に増えたことにより、出版および書店の仕事から新聞販売部門を分離して、別に一店を設け「北尾新聞舗」と称することになります。朝日にとっては最大の売捌所となります。

翌13年には「朝日」をはじめ在阪各紙も合わせて日刊新聞だけでも11紙を売っており、東京の「朝野新聞」の大阪支局も兼ねていました。

当時すでに鉄道が大阪−神戸間、大阪-京都間が開通しておりましたので、輸送には汽車を使っていましたが、大阪府下は、例えば堺や岸和田などへは深夜に人力車を使って配送していたと述べられています。
   「朝日新聞販売百年史」には明治33年6月16日、北尾禹三郎が死去したことが書かれています。

これによりますと、禹三郎は安政元年(1854)2月17日、北尾墨江(初代藤屋禹三郎)の長男として生まれ、墨江の遺業を継ぎ浪華の老書肆として盛名あり・・・とありますので、江戸時代より大坂の出版文化を継承した文化人だったことが伺えます。

先代の墨江は出版業としては「北尾」と「藤屋」の二つの屋号を使い分けていたようです。

※ 北尾墨江(きたおぼっこう)は「北尾墨香」と記されるのが正しいようです。
 
 
 
 
 禹三郎が逝去した翌日の朝日新聞には彼の妻トメの名前で死亡広告が載せられています。
昭和30年代半ば頃、岡町商店街の中ほどに「朝日新聞の岡町販売所」がありました。
「北尾新聞舗」の玉垣の一つは裏参詣道を入ったすぐのところにあります

明治33年6月、「北尾新聞舗」店主北尾禹三郎が47歳の若さで亡くなります。朝日新聞社は彼の業績を称えるとともに、彼の死を惜しむ内容の記事を掲載しています。

その後、北尾新聞舗ならびに北尾書店がどのような歴史を辿ってきたかは定かではありませんが、戦後、北尾書籍貿易(株)として、大阪に拠点を置く外国学術書籍輸入販売会社として活躍することになります。

北尾は戦後いち早くアメリカ文化を日本に紹介する仕事として、アメリカの総合雑誌「リーダーズ・ダイジェスト」の国内販売を一手に引き受けることで業績を飛躍的に伸ばします。

敗戦後の日本にはスポーツ、音楽、映画、テレビドラマなどアメリカの文化が一挙に入ってきます。
大手製造業はアメリカ向けの輸出に力を入れはじめます。こうしたことで当時の多くの学生や若い労働者の意識は、英語学習意欲の高まり、さらに、アメリカ文化の積極的吸収へと傾いていきます。
こうした時代背景が「リーダーズ・ダイジェスト」の購買に一層の拍車をかける結果となりました。

北尾はそれと並行して欧米の学術書籍雑誌の輸入販売を手掛け、医学・薬学系分野に強い洋書店として大学や官公庁の研究機関、製薬会社などとの取引が活発だったと記憶しています。

尚、禹三郎のひ孫にあたる人物が現在のSBIグループの創業者で、SBIホールディングス(株)の代表取締役社長の北尾吉孝氏です。
勝部の神社=神明社と玉垣について

原田神社本殿の北側に元々勝部にあった神社=神明社があります。
明治39年当時の内務省神社局が主導して「神社合祀政策」が実施されました。これは日本各地にある神社の数を減らし、残った神社に経費を集中させることを目的とした政策で、勝部の神社=神明社も明治43年3月10日、千里川に架かる神明橋西詰北にあった場所から原田神社の境内に移築したということです。
このことについては昭和36年勝部の郷土史家田邉太市郎氏が彼の自書「豊中市勝部史」に記されています。
明治43年発行の岡町〜勝部界隈の地図
当時の地図では勝部村の北端、千里川の西側傍に神社の存在を明示しています。
箕面有馬電気軌道(現在の阪急電車)開通当時は岡町駅から勝部に至るまで1軒も家がなかったことが分かります。
この頃より遡る明治初年、勝部の戸数が57戸だったとの記録があります。
田邉太市郎氏の「豊中市勝部史」には勝部の「神明社」が明治43年3月10日に「合併」「合祀」したことを記述されています。同じに日に「箕面有馬電気軌道」=現在の阪急電車が開業しています。はたしてこれは単なる偶然だったのでしょうか・・・
合祀された日から2年前の明治41年1月に「伊勢講」の後継団体である「皇祖講」の集まりで「神明社」の表具を仕立てた記録があります。これにはこの仕立てに掛かった費用を講中の頭割りで負担したことが記されています。
さらに、明治41年2月12日、中西文雅堂という業者が勝部の講中宛てに「大神宮様御表具仕立て代金」を受け取ったことを記した旨、便箋に書き残しています。 領収証ということです。

これらの書類が存在することで、勝部にあった神社「神明社」が原田神社と合祀され、現在の原田神社境内に移築されたことを証明しています。
田邉太市郎氏について

「豊中市勝部史」を自費出版として上梓された郷土史家田邉太市郎氏については「写真集・戦後の勝部の風景(四)」で少し触れていますが、この出版年1961年に古希を迎えられたと「編集後記」に述べられていますので、明治24年のお生まれだと推測できます。そして、明治41年3月に池田師範学校に入学と同時に寄宿舎に入ったとの記述がありますので、彼は尋常小学校を出て、中学校(旧制)へ進み17歳で池田師範(現在の大阪教育大学旧池田分校)へ入学されたことになります。

現在ならば電車で通学が可能な範囲ですが、当時はまだ阪急電車が開通していなかったので寄宿舎に入られたのだろう。そして、卒業後は教職の道へ進まれたようです。その後、昭和10年44歳の時に帰郷したとありますので、青年期から壮年期にかけて勝部を離れて暮らしておられたことがうかがえます。

田邉太市郎氏が就学年齢に達したころの我が国の就学率は70%ほどで、地方や農村部はそれよりも低かったということです。この頃は尋常小学校の6年間で学業を終え社会に出る子供も多くいて、高等小学校へ進学するのは20%程度と少なかった。ましてや中学校(旧制)へ進む子は一握りの限られた裕福な家庭の子で、地域の中ではエリート扱いされていました。

この当時の勝部のほとんどの子供たちは、尋常小学校卒業あるいは高等小学校を卒業すると社会へ出て勤め人になったり、家業(主に農業)を手伝って成長していきます。僅か12歳か14歳で社会へ出ていくという時代でした。したがって田邉太市郎氏のような存在は特別な家庭環境で育った人と言えます。

尚、「豊中市勝部史」は昭和36年12月25日に刊行されていますが、この僅か2か月前の10月25日に田邉太市郎氏の急逝された奥様の葬儀が執り行われました。
刊行にあたって奥様の相当なご尽力があったことは想像できます。

勝部の神社を取り囲むように並ぶ玉垣には勝部に所縁ある人の名前が刻まれています。
田邉家について

勝部の神社を囲む玉垣の中に「田邉良太郎」の文字が刻まれたものがあります。
田邉良太郎氏は江戸時代からの勝部の庄屋の家柄で千里川の西側一帯に広大な農地を所有していました。
田辺家は江戸中期から年寄役をつとめ幕末には庄屋役となり旗本領主畠山氏の「御勝手懸り」になります。畠山氏の財政を引き受ける重要な役割を担うことになります。この頃の旗本領や小藩は経営能力が著しく欠如していて、藩札の発行や管理まで有力な農民や商人に委託あるいは丸投げ状態にありました。
幕末の小藩はそのほとんどが財政難に陥り、自らの力で財政を立て直すことも出来ず、専ら借金と藩札の発行で遣り繰りしていました。

田邉家は幕末になると石高持ち60石を上回る豪農になり、小作経営のみならず利貸経営も手広く行い大名貸、町人貸、など多くの貸金業で蓄財し、天保飢饉による伊丹の酒造業者が倒産するとこれを買い取り、酒造業にも手を出したと言われています。
幕末期の田邉家は生産性の高い良田畑5町歩余りを所有していたということで、これは田んぼの枚数にして50反、1万5千坪に匹敵する広さの農地ということです。

江戸中期、当時の幕府は勿論のこと地方の大名も財政が逼迫し、豊中地方の小藩である麻田藩などは大坂の有力な町人からの借り入れだけでなく、地元の百姓からも借りなければならないほど藩の財政は窮迫していました。
このように財政の窮迫した藩は地元の有力な農民や町人に「名字帯刀御免=名字を名乗り刀を持つことを許可する」を与える代わりに農民たちから借金し藩の財政をやりくりしていました。そして、幕末になるとこれが益々乱発傾向になっていきます。
明治に入って廃藩置県が行われる頃には累積した借入額はもはや手の付けられない状況で、財政再建の目途は立たず、事実上藩財政は破綻していました。

また、田邉良太郎氏は自身の所有する田畑から古い土器がいくつも発掘されていることを知り、『勝部の田んぼの地下には古代の遺跡が眠っている』と早くから指摘されていました。

氏の指摘通り、昭和42年大阪空港拡張工事の折、広範囲にわたる弥生時代の遺跡が発掘され、「勝部遺跡」として現存しています。さらに、氏が長年整理保管されてきた田邉家に残る古文書類を子孫の方が豊中市に寄贈され、これがのちに第一次資料=「田邉良太郎文書」としてのちの「豊中市史」の編纂に役立てられています。