時の流れの中で・・・勝部の中の歴史 D
勝部の神明社と神社合祀政策
原田神社境内の原田神社本殿北隣に勝部の神社「神明社」があります。
勝部に所縁のある人々の名前が刻まれた玉垣に囲まれ、原田神社の拝殿に比べると、地味で、質素で、ひっそりとした佇まいで存在しています。

この勝部の神社「神明社」は元からこの場所に存在したものではなく、勝部の村を流れる「千里川」の西側にあったものが、ここに移築されたものなのです。
それは、明治政府による「神社合祀合併令」によって行われた移転が理由です。

このページでは勝部にあった「神明社」という神社の移転と明治43年という時代について書いてみたいと思います。

2019年4月1日 更新
神社寺院仏堂合併跡地ノ譲与ニ関スル件(勅令第220号)
明治39年8月9日勅令第220号として公布されています。(8月10日付官報)

「勅令」とは大日本帝国憲法下において、天皇自ら直接制定する法形式で、帝国議会の審議を経ずに発令することが出来る法律である。
「神社合祀合併令」の主旨は、一定地域内」の神社を合併することでそれぞれにかかる経費の一元化を図り、財政の負担軽減をめざしたものでした。

この「神社合祀合併令」の公布に対しては、当時の高名な民俗学者であり博物学者でもある南方熊楠が痛烈に批判しています。
南方熊楠はこの合祀令によって、それぞれ地域の神社が長年にわたって継承してきた祭礼の儀式や習俗が消滅してしまう恐れがあることを指摘し、特定の一社に合併することは他の地域の信仰心を失う恐れがあり、地域集落の消滅につながると主張しています。
そもそも勝部の神明社はその名の通り伊勢神宮を総本社として祀ってきたもので、この村には古くから伊勢信仰に根ざした「伊勢講」の存在もありました。勝部住民の伊勢信仰の記録でもある「伊勢講勘定帳」が現在も残っております。(辻村佐兵衛所蔵)

表具の仕立て代金を受け取った旨を書面に記した「中西文雅堂」の講中宛て領収証は、伊勢講勘定帳の中に挿まれていました。
移築に先立って明治41年2月に表具を仕立てた記録が残っています。「神社合祀令」の公布からさまざま準備を経て明治43年3月に移築するまで講中のメンバーが中心となって作業が進められたようです。

そのメンバーの顔触れは、田辺安治郎、田辺友吉、山下政吉、田辺綱吉、田辺定治郎、田辺弥三郎、山下源三郎、山内梅吉、田辺亥之助の9人の名が記されています。
勝部の神社である神明社が現在の原田神社境内に移築された記録は、昭和36年当時勝部の郷土史家で「豊中郷土文化研究会」会員の田邉太一郎氏による自費出版「豊中市勝部史」に記述された文章が残っているだけで、それ以外に詳しい記録や資料は見当たりません。
この「豊中市勝部史」の記述内容を検証しながら、神明社の実態を究明したいと思います。
田邉氏の「豊中市勝部史」には昭和18年に撮影された「神明社跡」の写真が掲載されています。
そこには「神明橋西詰の北側」と場所の記述もあります。
明治42年の地図には勝部村の北西、千里川の西側に神社を表す地図記号が描かれています。
旧千里川に架かる神明橋
勝部の村の西寄りの地域を北から南に流れる千里川と神明橋。昭和30年代半ば頃、橋は木製だった。
下流から写したもので写真右手に村の中心部の家々が存在した。
神明橋西詰から北側を写した写真。右下に木製の欄干が写っている。
田邉氏の「豊中市勝部史」の写真説明によれば、中央の瓦屋根の家の向こう側が神明社跡があった場所に該当する。
写っている家は村人から「北遊上さん」(きたゆかみさん)と呼ばれていた遊上家で、明治時代から戦前にかけての勝部の大地主の家だった。

この遊上家の瓦屋根の右側にある納屋を改造して、ここでそろばん教室を運営されていたのが、写真左の立木の陰にある吉田さんの家で、吉田さんは郵便局に勤める傍らここでご夫婦でそろばん塾を経営されていました。勝部の子供たちのほとんどがお世話になったそろばん教室です。
昭和30年代半ば頃の写真です

勝部の村人の居住地域は村人全体の9割以上が千里川の東側にあり、西側には1割弱の村人が住んでいました。村の中では西側地域を「川向こう」と呼んでいました。

勝部には昔から同姓が多く、田辺、森田、渡辺、山下、遊上など、同じ苗字を区別するために、それらを屋号で呼び合う習慣がありました。
勝部の秋祭りの写真。昭和32年頃

神明橋東詰の堤防上で写したもの。写真右端に木製の欄干が写っています。
神輿(太鼓と呼んでいた)の担ぎ手とそれに乗って太鼓をたたく子供たちの集合写真。
太鼓を先導する村の長老たちや参加者に振る舞う食事の炊き出しをする婦人たちの顔も見える。
当時は農家でも息子たちはサラリーマンとして会社勤めをしていた人も多く、太鼓の担ぎ手として参加している若者は、専業農家であったり自営業であって、サラリーマンは仕事を休んでまで参加する人はいなかった。

写真の子供たちの年齢は10歳前後が中心で、中には未就学の子供もいます。
千里川の付け替えによる川の流れと「神明橋」および神明社跡
現在(2019年)の走井から勝部付近の「千里川の流れ」(上の地図)
昭和30年代の走井から勝部付近(上の地図)
現在の地図で示した付け替え以前の川の流れと「神明橋」の位置(上の地図)
現在の神明橋
現在の神明橋と付け替え後の千里川
「豊中市勝部史」に記述がある「オテンサンのヤスミバ」に置かれていた大きな一枚石
「勝部弥生遺跡」の碑文と松の木と碑石の一枚石
当時の松の木とは同じ樹ではないようです
碑石と松の木の位置を示した地図
碑石の一枚石−刻まれたとされる文字は全く読み取れないほど風化が進んでいる
埋め立てられ遊歩道になったかつての千里川(勝部2丁目)
昭和40年ごろまで「神明橋」が架かっていた場所の現在の風景
千里川左岸の堤防だった辺りの現在の風景。
昭和32年ごろの千里川堤防風景(堤防左岸から下流方向を写す)
昭和40年ごろの千里川堤防の風景(右岸堤防から上流を写す−写真右に写っている橋は「南高橋」)
明治43年(1910)3月10日という日
「豊中市勝部史」の記述によると勝部の「神明社」が合併し原田神社境内に移築された日が明治43年3月10日とされています。
勅令「神社合併合祀令」が公布されて3年半後のことです。
奇しくもこの日は「箕面有馬電気軌道=(現在の阪急電車)」の開通日でもありました。
はたしてこれは偶然の一致だったのでしょうか。それとも何か日程を合わせる意味合いがあったのでしょうか・・・。

今となってはそのことを検証する術はありませんが、明治43年3月という時代と、「箕面有馬電気軌道」の開通について書いてみようと思います。
箕面有馬電気軌道の開通
明治43年3月10日の開通日「大阪朝日新聞」と「大阪毎日新聞」には一面広告が掲載されました
開通当時は梅田−宝塚間と箕面までで、宝塚―西宮間(現在の今津線)はまだ開通できず、野江線(城東区野江)はその後断念。宝塚―有馬間は建設工事の困難が予想され実現に至りませんでした。
当時一般では「箕面電車」と呼ばれていました。
開業当時は一両電車で梅田−宝塚間を50分程度で運行していました。
電車開業で賑わう梅田駅正面
また同時に開通した京阪電車と合わせ沿線の名所案内も「電鉄記念号」として一面広告で掲載されました
記事には「桜塚の獅子祭」として原田神社の「獅子追い神事」の紹介も載っています
現在も毎年10月9日原田神社の秋の大祭で「獅子追い神事」が行われていますが、現在の獅子追いの動きは明治43年(勝部の神明社が移築された)以降から行われることになったと解釈できます。
電車の開通式の賑わいも詳しく伝えられています
電車が開通した二日目の3月11日には列車事故で死傷者が出たことを報じる記事が載っています。

記事では東区糸屋町の医師の奥さん(57歳)が運動のため淀川堤防に来ていて、堤防から電車に乗ろうとして跳ね飛ばされ、川の中に転落したとのことです。
運転手は、乗客がいないと思って、そのまま駅を通過しようとしたところにその婦人が乗ろうとして跳ねられたようです。

開通当時の駅は梅田から北野・新淀川・十三の順にあって、現在の中津駅はありませんでした。
新淀川の駅は淀川左岸の堤防の上にホームがあり、十三駅も現在の場所ではなく淀川右岸の堤防の上にホームがあったということです。当時の駅には駅舎も切符売り場も改札口も無く、駅員もいませんでした。

もう一つの事故の記事は、箕面線で、箕面発石橋行きの電車に跳ねられた記事です。
箕面駅を出発して間もなくの「字西小路」辺りで、箕面学校の小使いさん(用務員)のお婆さん(67歳)が、線路を横切ろうとして、接近してきた電車に跳ねられたという記事です。この方は亡くなられました。

当時は電車を見るのも初めて、乗るのも初めてという人がほとんどで、乗り方も判らない、電車が接近してきても、そのスピードがどれほどのものなのか理解していない。そして当時、女性の普段着は着物(和服)であったので、とっさの動きができない。さらに、線路に人が立ち入らないようにするための防護柵も設けていない時代だったので、このような事故が頻発したのだろうと考えられます。
明治43年という時代
明治43年3月10日から15日の間の新聞には、前年10月ハルビンの駅頭で伊藤博文を暗殺し、その後裁判で死刑判決を下された安重根の獄中での様子を、旅順と大連から伝えた記事が掲載されています。それぞれ電報で情報を伝えられているということは、それだけ国内でも関心が高かったのでしょう。
安重根の獄中での様子を報じた記事
また、面会した宣教師が死刑執行の日を3月25日になるだろうと考えていたことも報じられていますが、実際は26日に執行されました。
刑の執行を報じた新聞記事
さらに5か月後の8月22日、韓国を併合したことを報じる号外が出ました