個人的体験 その二

続・心筋梗塞体験記


心筋梗塞というのは、心臓に酸素や栄養を送る冠動脈が血栓等により閉塞し、突発性の激しい胸痛が発症し、心筋が壊死に至る病気である。
その原因となる動脈硬化の危険因子として、高脂血症、高血圧症、加齢、糖尿病、肥満、喫煙、ストレス、運動不足などがあげられる。
(イミダス 2005年版参照)

救急車で搬送された病院で4時間にわたる緊急手術の結果、ようやく一命を取り留め、集中治療室へ駆けつけて来た家族や兄弟たちが帰ったのは、日付が替わった夜中の2時ごろだった。
左手首には点滴の針、右足首はベッドの柵に括られ、尿道には管が挿入、鼻には酸素吸入器。胸には幾つかの電極が付けられ、そのコードがベッド脇の心電図の計器に接続されている。

「疲れたでしょう。 ゆっくりお休みなさいね。」と、担当の看護婦さんが優しい言葉をかけてくれるのだが、がんじがらめにされた状態ではなかなか寝付かれない。同じ姿勢のままで寝返りどころか、体をひねることもままならない。
特に尿道に挿入された管の存在が、いかんともしがたい不快感の源である。
要するに、絶対安静のため立ってトイレに行くことが出来ないので、オチンチンの先から膀胱に管を入れられているのである。それも鉛筆ぐらいの太さのモノ。

その管はベッドの横に吊るされたナイロンの袋に繋がって、その袋に尿が溜まる仕組みになっている。管は太腿のところでテープで固定されてはいるものの、体をよじったり、腰を浮かせたりするたびに、そのデリケートな先端部分を引きつらせる。

その不快感は手術台に乗せられた直後、いきなり管を突っ込まれた時の激痛が、精神的なショックとして残っていることも関係している。本来ならば、前もって説明を受け、その上で”覚悟を決めて挿入”という手順なのだろうが、何しろ緊急事態であったため、やむを得ない処置であった。
挿入時もそうだが、引き抜かれる時も独特の不快感だ。膀胱ごと引きずり出されるような感触。こればかりは経験者でなければ、しかも男性でなければ理解できないだろう。(この管は6日後に引き抜かれることになる)

但し、最近の手術では上腕の動脈からのカテーテルが主流になり、股動脈からのカテーテルはなくなりつつあるとのこと。したがって尿道の管の挿入も不要となったようである。

しばらくして、ここの集中治療室には私を含めて6人の患者が収容されていることに気がついた。私の隣のベッドには、人工呼吸器をつけた患者が横たわっている。
真夜中のシーンと静まり返った病室で、規則正しい機械音だけが時を刻んでいた。そしていつの間にか浅い眠りに入っていた。
何時間か、あるいは数十分かして眠りから覚めた。自由の利く左足を立てて、少し腰を持ち上げ、体を斜めにしようとモゾモゾしていると看護婦さんが「どうしました」と。
腰のだるいことを告げると、丸めたタオルを腰の下にあてがってくれた。
これで少し楽になった。ついでに咽を潤すためのお茶を貰って再び眠りに入った。眠っているようで、覚めているようなウツラウツラの状態が長く続いて、次に眠りから覚めたときには窓の外が明るくなっていた。

何か夢を見ていたようだが、どんな夢だったか思い出せない。まどろみの中で、昨日の出来事を振り返りながら、自分の生存確認の作業を始めた。駅で妻と娘と別れて一人家路に向かったあと、胸痛に襲われ、救急車に乗せられてこの病院に搬送され手術と。
一つひとつの出来事を反芻しながら、そのあいだ意識を失っていないことを確認するための作業だった。
「間違いなく意識は連続している」いま自分は”生きている”と。
ただ、そう確信しながらも、いまこうして病院のベッドの上にいる現実とはまた別に、自宅では葬儀の準備が行われている現実があるのでは。という思いが持ち上がってくるのである。入院から3、4日この思いから抜け出すことが出来なかった。

しばらくして、検温と血圧を計られたあと朝食が運ばれてきた。だが、食欲はない。パンと牛乳とバナナ一本だったと思うが、バナナを半分と牛乳を飲んであとは残した。
看護婦の夜勤、日勤の交替の後、主治医の回診。

「どうですか、よく眠れましたか」,「あなたが搬送されてくると、連絡が入って来たときは、丁度皆帰り支度をしていたところだったんですよ」,「担当医だけでなく、検査技師も他のスタッフも揃っていて良かった。」,「本当に運が良かったんですよ。」と、穏やかな語り口のこの先生は、この病院の循環器部長だった。
そして、今回この急性心筋梗塞の発作が起きた原因を分析するため、様々な聞き取り調査が行われた。肉親、近親者の病歴や死因について。普段の食生活の内容、嗜好や飲酒、喫煙の習慣。
過去の病歴や今回の発作に繋がる予兆。仕事の内容と普段の生活リズム、等々。
先ず、肉親、近親者の死因については、父は67歳の時脳血栓で倒れ、73歳で他界。
母は前回の「心筋梗塞体験記」で書いたように、70歳のとき外出から徒歩で帰宅途中急性心不全で。母の場合は、路上で倒れ、救急車で病院へ搬送された時にはすでに心停止していて、病院で電気ショックにより心機能を復活させたものの、意識は戻らないまま1週間後に息を引き取った。
病院に搬送された時の母の顔には、倒れたときに地面に強く打ちつけたと思われる打撲の痕が生々しく残っていた。恐らくその瞬間には意識は無かっただろうと思う。
そう考えると、苦しまずに逝ったことは良かったのかも知れない。

祖父母のことは、幼い頃より母から聞かされていた伝聞でしか知りようがないが、父方の祖父は、脳溢血で。当時、祖父の時代の我が家は農家で、祖父は田圃で倒れたそうである。
昭和12年当時に救急車があったのかどうかは知らないが、病院へは搬送されず、近くで農作業をしていた親戚の人たちに担がれて帰宅し、意識が無いまま5日後に息を引き取ったとのことです。64歳でした。そして、その死因も、脳血栓なのか脳梗塞なのか、くも膜下出血なのか、詳しいことは判っていない。
一般庶民には、まだ医学の知識や情報が浸透していない時代で、みんな一括りに「脳溢血」ということで片付けられていたように思う。
祖母については、詳しい死因は伝わってはいないが、母の話によると「心臓病だった」ようである。
戦争末期、父が出征したあと、頻繁にやってくる空襲に、母は寝たきりになった祖母を背負い、8歳を頭に4人の子供を連れ、防空壕に逃げ込んだ。と言う話は、生前何度も聞かされていた。
その祖母が亡くなったのは昭和20年の8月20日。終戦から5日後のことだった。常日頃、病院へ行って検査や診察を受けることができる環境ではなく、混乱の中での祖母の最後だった。と聞かされていました。享年70歳。
その祖母も最後には空襲警報のサイレンにも「私のことは、もうええ、子供らだけ連れて逃げて」と。すでに病床で覚悟を決めていたとのことです。
このように、父母、祖父母の病歴、死因を思い起こしただけでも、私には充分遺伝的要素が具わっていると言えます。
日常の食生活については、若い頃からこってりしたものや脂っこいものが好きでした。
子供の頃、毎日の食卓には母が作った野菜の煮たのや酢の物などが出ていましたが、自分から好んで食べる事はなく、親に促されてしかたなく食べる、と言うのが常でした。
この傾向が大人になって働きだして、外食が増えることにより習慣になっていったのだと思います。
これが高脂血症の要因であると、主治医から指摘されました。
お酒やアルコール飲料については、私はまったく飲まない。 否、飲めないのです。飲んでもせいぜいビールをコップに2杯が限界だ。ビールをコップに半分ほど飲んだだけでも、顔面真っ赤になる。いや全身がそうなる。手の平も足の裏も真っ赤になる。だからと言って酔っ払った訳でもない。
今までに酒を飲んで、前後不覚のヘベレケに酔った経験がない。陽気になったり、暴れたりしたこともない。ただ眠くなって横になることはある。そして2、3時間もすれば元に戻る。
元々、好きで飲むのではなく、付き合いで飲むことが多い。
タバコは30代半ばで止めている。吸っていた時期も一日せいぜい一箱まで。だから、世間で言われるところの「禁煙の努力」も経験がない。アッサリ止められた。

主治医の回診で、当分のあいだの安静と投薬による治療が告げられた。
心筋梗塞という病気は、一旦閉塞した血管に血流が復活すると、それまでの胸の痛みや苦しみが嘘のように思える。しかし、心臓の筋肉は確実にダメージを受けていて、安易にベッドから起き上がったり、歩いたりすることは出来ない。
このようにして約一ヶ月にわたる入院生活が始まった。
それは、私自身の食い物に対する欲望との戦いの始まりでもあった。

この続きはまた次回の「心筋梗塞体験記」で。

2005年 2月 16日