個人的体験 その一

 心筋梗塞体験記


初めて急性心筋梗塞の発作に襲われて早や5年になります。

危うく命を落としそうになった”あの時”から5年の歳月が流れ、

今、ようやく冷静に”あの時”を振り返る心境になった。

そして振り返る事で”あの時”の「苦しみ」と「痛み」を思い起こさせ、

現在の生活の在り方に対する自戒としたい。

”あの時”とは、1999年7月14日のこと。

その日は夕方に梅田で妻と娘と待ち合わせをして、谷町の府庁へ

パスポートを受取りに行く予定で、前日の東京への出張も日帰りで済ませ、

その日の営業活動も早く終わらせて、会社の事務所を後にした。

振り返ってみれば、その日は一日中身体がだるく、営業用の鞄も重く感じて

電車に乗っても車両の隅っこの座席で、横の壁にもたれ掛かるような仕草だった。

親子3人パスポートを手にして、途中梅田で夕食を済ませ、帰宅の途についた。

自宅最寄駅で娘は塾へ行くまでの時間、駅構内にある本屋へ寄っていくと言い。

妻もそれに付き合うと言うので、自分だけ先に帰ることにした。

駅から自宅に向かって歩き出して、無性に咽の渇きを覚え、冷たい飲み物をと、

自動販売機を探したが、すでに駅から離れていたので、そのまま家まで我慢する事にした。

そしてその時初めて自分の体の異常を感じたのだった。

「尋常な事態ではない」と確信した。

そしてその時の心境は「とりあえず早く家に帰ろう」と言う気持ちだった。

最初は胸苦しい感じがして、急に汗が噴出した。

歩いていても、なかなか前へ進んでいる感じがせず、もどかしい。

「早く帰って横になろう」そう言う気持ちだった。

自宅は駅から徒歩7分程度。

「早く帰ろう」と言う気持ちとは裏腹に、足は一向に前へ進まない。

次に来たのは胸の圧迫感。押し潰されるような圧迫感が襲ってきた。

それでもようやく信号の所まで来た。信号を渡れば自宅マンションの敷地内。

取りあえず信号を渡って、マンションの敷地内のベンチで一休みしようと思った。

自宅は敷地内の一番奥にある6号棟、そこまで約200メートル。

信号を渡るとき母の事を思い出した。「お袋もこんなふうだったんだ」と。

母親は70歳の時、外出先から帰宅途中に急性心不全で倒れ、救急車で病院に搬送された

時にはすでに心停止していた。

急きょ電気ショックで心臓機能を復活させたものの、意識が戻らないまま一週間後に息をひきとった。

そして今、「自分にその順番が来たのだ!」と言う思いがした。

私は6人兄弟の末っ子で、両親はすでに他界しているが、上の5人は全て健在である。

「なぜ俺が一番先なんや!」と思った。「順番間違ってるぞ!!」と言う思いも。

信号を渡り切って、花壇の横のベンチに腰を降ろした。

胸の苦しさと、さらに今度は胸の痛さが襲ってきた。

心臓をえぐり出される様な痛みだ。

このときの胸の苦しさ痛みを形容するとき、そしてそれを人に説明するときに

次のように話します。

「それは丁度相撲の小錦が、仰向けに寝ている自分胸の上にドッカと座り、

両脇から肋骨の間に割り箸を差し込んで、心臓をグリグリするような感じ」と説明している。

錐(キリ)のような先の尖った鋭利なものではなく、割り箸のような先の尖っていないものを

無理やり肋骨の隙間に差し込まれているような痛みだった。

あともう少し・・・、エレベーターに乗りさえすれば、あとは這ってでも帰れる。と思った。

息遣いは荒くなり、胸の圧迫感と痛みは更に増してきた。

7月半ばの夕暮れ時、まだ明るさはあったが、外を出歩く人の姿も見当たらない。

気持ちを振り絞って立ち上がり再び歩き出した。20歩ほど歩いては苦しくてまた座り込んだ。

そして誰か助けを呼ぼうと思い、辺りを見回したが人の歩く姿も見当たらない。

「こんな道端で倒れて死にたくはない、母親のように・・・」

「死ぬなら家で死のう・・・畳の上で・・・」と、このとき生まれて初めて”死”を覚悟した。

必死の思いで立ち上がりまた20歩ほどで座り込む。

体じゅう汗びっしょり。ワイシャツの胸の辺りが汗で体に張り付いている。

コンクリートの植え込みの枠に腰を降ろした状態でハアハアと肩で荒い息をして、

ふと前を見ると公衆電話ボックス。いつもは気にも留めなかった敷地内の電話ボックス。

「この電話で救急車を呼べば助かるかも・・・」と思った。

電話ボックスまで5メートル。これなら歩ける。

ところがあいにく電話ボックスの中で、宅配便のお兄ちゃんが伝票を繰りながら長話。

向うを向いているのでこちらの存在に気が付かない。

益々胸の苦しさが激しくなって、植え込みに体をのけ反る様にしたところ、

後ろで何やら話し声。お婆さんが二人、小声で立ち話をしている。

思わず振り向いて「すいません、救急車呼んでください!!」と、これだけ言うのが精一杯。

一人のお婆さんが電話ボックスに駆け寄り、外からドンドンと叩いて、中の宅配便のお兄ちゃんに

「救急車呼ばなアカンから早よ出て!!」

苦しそうな姿の僕を見て、お婆さんは「ネクタイ外したら?」と、言ってくれるのだが

汗で湿ったネクタイが解けない。

「家に電話したげよか?」と言ってくれたので、電話番号を告げて掛けてもらったが

「誰も出はれへんわ」と、妻は娘とまだ駅の本屋にいるようだ。

それにしても救急車が遅い。

「まだかいな・・・遅いなぁ」と、二人のお婆さんも心配してくれている。

とにかく苦しい、そして痛い。早く来てほしい。

「この苦しさ、痛みから解放されるのなら、救急車でも霊柩車でも、どっちでもいい。

早く来てくれ!」という気持ちだった。

救急車を呼んでもらって、およそ20分ほどしてようやくピーポーピーポーの音が聞こえてきた。

救急隊員の方が症状と意識の有無を確認。そして「掛かりつけの病院はありますか?」と。

無いことを告げると担架に乗せられ、ハッチバックに入れられようとする時、妻が駆けつけてきた。

「お父さんどうしたの?、大丈夫?」と言う声は聞こえていたが、咽がカラカラで声が出ない。

救急車に妻も乗り込み、救急隊員の方が搬送先の病院へ電話。

一つめの病院は処置できる専門医を確認するのに時間がかかり断念。

二つめの病院へ向かうことに。

後で聞いた話だが、このとき救急車の中で苦しさのあまり、のたうちまわっていたらしい。

妻が私の手を握り「しっかりして!」と言って、救急隊員の方に「今は触らないで!」と、

たしなめられたのを覚えている。

程なくして病院へ到着。もちろんそこが何処の病院だか自分ではわからない。

すぐ手術室へ運ばれ、手際よく素っ裸にされ冷たい手術台へ仰向けに寝かされた。

舌下錠を入れられ、股間にヒヤッとする感触、そしてプッチと痛みが。

アルコール消毒して麻酔が打たれたのだ。

次の瞬間下腹部に異様な激痛が走った。

思わずガッバッと起き上がろうとしてその激痛の箇所に目をやった。

尿道に管を入れられた痛みだった。このとき何かを叫んだらしい。

これも後で聞いた話だが、このとき手術室の外で待機していた妻は

「悲壮なわめき声が聞こえた」と。

起き上がろうとして激痛の股間に目を向けようとして、手術担当の看護婦と視線が合った。

何かを叫びながらこの看護婦を睨みつけたような記憶がある。

執刀医や検査技士、看護士らに押さえつけられ、「少しのあいだ我慢してください」と。

そのあいだも胸の痛みと苦しさは続いてのた打ち回っていた。

口には酸素吸入のマスク、腕に血圧計のベルト、指先に洗濯バサミのようなもの。

(あとで解かったことだが、血中の酸素の量を測定する器具だということだ)

手首に点滴の針、手術台の横にはいくつかのモニター画面と計器類。

それらが見事な手際で設置されていく、そしてそれから長い手術が始まった。

波状的にやってくる胸の圧迫感、咽から鼻に抜ける気体の感触、

胸の上に設置された造影機器が上下左右に角度を変え、絶え間なくカシャッカシャッと造影の音。

その間、執刀医が「ハイ息を深く吸って、そこで止めて」と、何度となく繰り返される。

苦しみに耐えながら指示に従うが、苦しさからはなかなか開放されない。

もう何時間もこうした状態が続いた感じだった。

「もう少しで楽になりますからね」と執刀医。

「大丈夫ですよ、がんばってね」と励ましの言葉を掛けながら額の汗を拭ってくれる看護婦。

ずいぶん長い時間に感じられた。長時間の手術で背中や腰がだるく痛い。

その痛みを感じてきたことは、胸の痛みが和らいできた証拠でもあった。

息づかいも穏やかになってきた。

「もう大丈夫ですよ、安心ですよ」と言う執刀医の声で「ああ・・助かったんだ」と思った。

さまざまな計器類を外されて、5人がかりで抱えられ手術台から搬送用ベッドに、

そして集中治療室に運ばれた。もう疲れ果てて、クタクタだった。

集中治療室で担当の看護婦さんに体を拭いてもらってようやく気分も落ち着いた。

拭いてもらっているタオルがチラッと見えた。血で真っ赤になっている。

動脈を切開したときの出血だった。どうりで手術中お尻の下がヌルヌルした感じがしていた。

そして看護婦さんに「今何時ですか」と聞いて、「いま夜中の12時半ですよ」と。

4時間あまりかかった手術だったのだ。

そこへ執刀医が入ってきて今回の手術の処置についての説明を受ける。

「とりあえず容態が安定するまで、股間の動脈から心臓までカテーテルを入れたままになっています」

「そして眠ているあいだに足を曲げないように、念のため足首をベッドの柵に括っておきましょう」と。

尿道の管も入れられたままだった。

しばらくして妻と娘が入ってきた。

そのあとから二人の姉、義兄、妻の従兄弟たちがぞろぞろと入ってきた。

これも後で聞いた話だが、手術の初めに心臓の造影を見た執刀医が、

外で待機している妻に「身内の方々に病院まで来てもらってください」と。

それほど切羽詰った状態で担ぎ込まれたのだった。

とにかく心臓の冠動脈が3本とも塞がってしまっていたのだから。

なにはともあれ、迅速かつ適切な処置をしてくださった病院の先生方のお陰で一命を取り留めました。

そして、幾つかの偶然の積み重ねがリレー式に私の命をつなぎとめたようです。

でもまだこの時点では、私の心臓の冠動脈は1本塞がったままの状態だったのです。

塞がったこの血管は、カテーテルの先端にある風船を膨らませ血管を拡張させて血流を回復させる

処置を2度試みましたが、硬く固まってしまって成功には至りませんでした。

この1本の塞がった冠動脈の血流を回復するため、その後1年半のあいだに4回の

入退院を繰り返す事になります。


”「あの苦しみを忘れちゃダメだよ。」と主治医が言った。だから7月14日は心筋梗塞記念日”

この続きはまた後日、「心筋梗塞体験記・第2弾」で。

2004年11月26日