新聞記事に見るあの頃の世相と出来事
私たちが豊中市立第一中学校へ入学したのは昭和36年(1961年)4月のことです。生徒たちは主に3つの地元の公立小学校から進学してきました。豊島小学校、原田小学校、南桜塚小学校の3校です。小学校の頃とは違った地域からの生徒との新たな出会いは新鮮なものでした。黒の詰襟の制服、英語の授業と科目ごとに先生が変わること、そして放課後のクラブ活動。何もかもが新しい経験の始まりでした。
このページでは当時の世相を振り返って、無邪気に過ごしたあの頃の気持ちをもう一度取り戻してみようと試みました。

2016年7月28日更新
当時のテレビ・ラジオ番組欄
当時の番組欄ではテレビよりもラジオの方が内容が詳しく伝えられていた。
テレビはNHKが総合と教育の2チャンネル。民放は毎日、朝日、関西、読売の4チャンネル。すべての放送は夜11時ごろには終了していた。金曜日の番組ではNHKは人気の子供向け人形劇「チロリン村とクルミの木」が6時から。7時のニュースの後、人気ドラマ「バス通り裏」が放送されていた。民放では「アニーよ銃をとれ」、「ぺりー・メイスン」、「ディズニーランド」などアメリカの番組を輸入して放送していた。
当時のプロ野球
当時もセパ両リーグとも6球団でペナント争いを繰り広げていた。ただ、球団名を見るとパリーグの全てが入れ替わって、今日残っている球団名は一つもない。そして、南海、近鉄、阪急、西鉄、阪神、国鉄と12球団中半分が鉄道会社のチームだった。当時は同一カードを一日2試合行う「ダブルヘッダー」という仕組みで、一日2試合に先発するという投手起用もあって、今では考えられないピッチャーの起用方が行われていた。
大相撲夏場所
昭和36年大相撲夏場所は西前頭13枚目の佐田の山が12勝3敗で初優勝した。佐田の山は当時23歳、後に第50代横綱になり引退後は日本相撲協会の理事長に就任する。この場所は横綱に朝潮、若乃花。大関に柏戸、大鵬。張出大関に琴ヶ浜、若羽黒。関脇に北葉山、岩風、房錦という顔ぶれで、佐田の山は関脇、大関、横綱との対戦なく優勝したため、これをきっかけに、平幕下位の力士でも優勝争いの可能性がある好成績であれば、上位の三役力士と対戦するよう取り組みの編成が行われるようになった。
レスリング世界選手権
1961年6月から横浜で開催される「レスリング世界選手権」の日本代表選手16人の発表があった。その中にヘビー級代表に選ばれた明治大学農学部3年の杉山恒治(二十歳)がいた。彼は3年後1964年の東京オリンピックに出場した翌年プロレスラーに転向、「サンダー杉山」のリングネームで活躍した。
映画と演芸
寄席の「角座」では漫才の「砂川捨丸‐中村春代」、「平和ラッパ‐日佐丸」、腹話術の「川上のぼる」らが出演。
この頃の映画ではハリウッド映画の「ベン・ハー」と「荒野の七人」が話題の作品だった。
広告と求人
当時、サントリーの「角瓶」が1250円と出ている。最近近くのスーパーのチラシで確認すると、1298円で売られている。50年以上経ってもほとんど変わっていない。
冷蔵庫は当時の大学卒の初任給でも買えなかった。
しかも、この当時の冷蔵庫は文字通り冷蔵機能だけで、冷凍庫はなくアイスクリームなどは保存できなかった。
もちろん、冷凍食品なども市販されていなかった時代です。
三菱はわざわざ「電気冷蔵庫」と表記している通り、当時の一般家庭では、まだ氷を入れて冷やすブリキ製の冷蔵庫が主流だった。
値段は「正価」と「月賦」の二通りが記されていて、月賦価格は正価の10%程度割増しになっていた。
松下電器(現パナソニック)の子会社「ナショナル製品月賦販売(株)」の求人広告が出ていた。家電製品を月賦で買った顧客へ毎月集金に廻る仕事だ。これには保証人が二人必要とされていて、さらに5万円の保証金も納めなければならないとされている。
集金したお金を「持ち逃げ」されないようにするための防御策だった。

当時はまだ金融システムが確立されておらず、銀行口座からの自動引き落としや銀行振り込みなどと言った支払方法がなかった時代で、各家電メーカーごとに月賦の集金を専門とする別会社を作って集金に当たらせた。

「自転車を所有している方」という条件が付いているところを見ると、住んでいる地域内で自転車で集金ができる範囲を担当させられる仕組みのようである。
1963年(昭和38年)9月の新聞広告に東芝がカラーテレビの広告を出しています。16インチ画面で220,000円という高額商品。この広告では従来の月賦販売に代って「東芝電化ローン」という支払システムを導入しています。それにしても高い買い物だったことには違いない。当時の大卒の初任給が1万5千〜1万8千円程度の時代だったことを考えれば、大卒の年収に匹敵する値段だった。
上のカラーテレビと同じ日の広告で日産の「新型ブルーバード」の広告が載っている。当時はエンジンの排気量が1000CCと1200CCと、今と比べれば小さい。値段は57万円〜70万円と、カラーテレビと比べればお手頃な値段だった。
住宅地販売
能勢電鉄の複線化が決定したことを受け、沿線の宅地が売り出された。1区画50坪より分譲で坪当たり6500〜12000円。畦野駅前に案内所が設けられている。一方阪急千里線関大前徒歩7分のところに土地付き1戸建てが300万〜350万円(土地60〜90坪)。
『この頃買ってたらなぁ〜・・・』
当時の電電公社の職員募集の広告が出ていました。高卒の初任給が12000円という時代でした。
1963年12月31日の新聞には「阪急百貨店」の広告が載っています。それによると翌日元旦から4日まで休みで、「5日から平常通り営業いたします」と書かれています。当時はどこの市場や商店街も元旦から4日あたりまで店は閉めていた。その間買に行きたくても店が開いていなかった。今から考えると不便のようだったが、そういう社会の仕組みが「正月らしさ」を感じさせる要因だったのかもしれない。
あの頃の出来事―豊中一中ではこんな出来事がありました
豊中一中の6人の生徒が休日武庫川上流〜武田尾方面へハイキングに出かけ、途中道に迷って帰ってこれなくなり、武庫川の川べりで一夜を過ごし、捜索隊が出動するといった出来事です。

この出来事は豊中一中創立以来の「新聞沙汰」になった事件です。当事者である6人の生徒とその家族にとっては忘れることのできない大事件だったのです。
 この出来事に関して6人の当事者の内、二人と連絡が取れましたので直接この時の状況を聞くことにしました。
それぞれの記憶には多少の食い違いがあるものの、新聞に書かれているような「地図も持たず」「計画性に欠ける」といった内容には不満が残ったという。ただ、新聞記者の取材を受けていた時は、とにかく疲れていて眠くて、早く解放されたかった。という気持ちで、どのような質問をされたか、それに対してどう答えたかなど、ほとんど記憶がないと言います。
彼らは地図も持って行ったし、帰路の行程もしっかりと計画していたと述べています。

後にこの地域の当時の状況を振り返ると、昭和30年代になるとゴルフ場建設ブームが起きていて、すでに幾つかのゴルフ場が出来ていました。ただ、アクセスのための道路建設が間に合わなくて、急遽新たな道路が作られていた時期でした。

当事者の一人の回想では、ハイキング途中にやたらトラックやダンプカーが行き来するのを見たと述べています。
おそらく、幹線道路からゴルフ場へ通じる道路建設で、元々あったハイキングコースが遮断され、彼らの計画通りに進まなかったことが「道に迷った」原因ではないだろうか・・・。

当時の新聞記事には本人の名前だけでなく、父親の名前や職業までが記載されています。個人情報の保護が保証されていない時代の新聞記事です。
この新聞沙汰の出来事で困惑された親御さんもおられたことでしょう。