写真集・戦前の勝部の風景

現存する古い写真の中で、明治・大正期、昭和の戦前の数少ない写真を掲載しています
明治30年頃の婚礼荷物の行列
手元に現存する勝部の最古の写真は上記の婚礼荷物を運ぶ行列の写真です。
場所は定かではありませんが、村の中心部に位置する田辺家ではないかと思われます。
前を行く二人は紋付・羽織・袴に山高帽、右手には末広(扇子)足元は「下駄履き」という和洋混在したいでたちです。

その後ろの着流しの人物が祖父伊三郎です。彼は明治7年の生まれで、この当時は二十代前半。風呂敷に包んだ荷物を持っている。左手だけで持っているのはおそらく婚礼荷物の目録を載せた長手盆だろうか、右手はピタリと真っ直ぐに右足に添えられている。後ろの行列の足元は脚絆にワラジ、頭にはすげ草の一文字笠と、時代の流れが服装にも大きく影響してきた頃の写真です。

当時のカメラはまだ動く被写体を捕らえるほどの性能はよくなく、このようなポーズをとってジッとした姿勢のままでカメラに収まったものなのだろう。写真を写されることも希な時代、祖父の右手の表情にその緊張感が表れています。


祖父伊三郎は辻村家の四男で末っ子ですが後に家督を相続することになります。
この写真に写っている他の人物については不明です。
撮影者も不明。おそらく岡町辺りにあった写真館から出張して撮影したものだと思われます。
この時代はまだ電車(箕面有馬電気軌道=現在の阪急電車)は開通していませんでした。

2002年11月掲載
 
 明治36年の卒業写真
 南豊島尋常小学校
 
 この写真は当時の豊能郡の「南豊島尋常小学校」の卒業写真です。明治36年3月19日に卒業式が行われました。
この当時の小学校の修業年限は4年間で、こののち明治40年に修業年限が6年に延長されます。但し、就学年齢が統一されていなかったので、卒業時点での年齢はそれぞれ同じ年齢の子供ではなかったそうです。
ひとり一人背格好や見た目に年齢が違って見えなくもない。

写っている子供たち全員が和服で、羽織を着ている子もいればそうでない子もいます。最前列右端の女の子だけは袴を付けています。「ええとこの子」なのかも知れません。
最上段には詰襟服を着た人物もいます。教師か校務員でしょうか・・・。

「南豊島尋常小学校」は現在の豊中市利倉東1丁目にありました。
 
 元の写真は上のようにかなり傷みがひどかったのですがPhotoshopで修正しました
 明治時代の富国強兵政策と学制

明治19年に時の文部大臣森有礼によって「小学校令」が施行され、国民全体の教育の底上げが行われました。しかし、各家庭においては子供といえども重要な働き手であり、なによりも費用が掛かることで、当時の就学率は低かったと言われています。明治25年当時の就学率は50%程度だったそうです。
それを明治33年には尋常小学校の授業料を無償化したことで一気に就学率が上昇、明治35年には90%になりました。この時代の修業年限は4年間でした。

その背景には国家としての富国強兵政策が大きな影響を与えていました。
明治6年の「徴兵令」によって、すべての国民が兵役に就くことが義務付けられましたが、国民のすべてに教育が行われていない時代だったので、明治27年の日清戦争当時、徴兵された兵隊は識字率が低く、地域によっては50%を下回るところもあり、読み書きができない兵隊がかなりの割合で存在していました。

さらに、全国均一に情報が行きわたっていない時代でもあり、地域による方言が異なることで、軍隊内での意思疎通が円滑に行われない状況であったため、言語の標準化が国家的緊急課題でありました。
物の名称や行動を表す語彙がそれぞれの方言によって異なるため、軍隊内での命令系統が正常に機能しないという弊害が起きていました。

江戸時代の幕藩体制下では、方言の違いにより異なった地域の者同士が口頭では話が通じない状況でしたが、明治新政府は全国に学校を設置し、国内の教育水準を底上げして国力を高める政策を実施していきました。
さらに、初等教育においては教育の均一化、国語の標準化を進めることで、異なった地域の出身者同士の意思疎通が可能な社会を作り出すことができました。それが今日の私たちの時代に繋がっているのです。

おそらくこの時代、青森県人と鹿児島県人では会話が成立しなかったのではないだろうか。
それが、軍隊という組織の中では極めて不都合な事態であるということは想像できる。こうした事態を解決するには「教育」という存在が不可欠であった。

2020年10月10日
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 初等教育の重要性について

江戸時代の幕藩体制下では、武士階級の子供たちは主に藩校や私塾で学ぶ機会を得ることができたが、農民や一般庶民の子供たちのほとんどは教育を受けるチャンスがなかったと言っても過言ではない。
ただ、武士階級の子供が学ぶ内容は主に漢学(論語など中国の古典)、儒学、朱子学が主で、自然科学系の学問を学ぶ機会はなかった。ほとんどが教養としての学問で、実学的な学問からは程遠い内容だった。

一方、農民や一般庶民の子供たちは、比較的人口の多い都市部や集落では寺子屋があって、そこで読み書きを習うことができたが、地方の農村では全く勉学の機会がなかった。そのため地方の農村部では大人も子供も読み書きができないことが当たり前の時代であった。
さらに、当時は教える内容に統一性がなく、藩校や私塾によってその内容やレベルはまちまちだった。

都市部に住む庶民の子供や都市近郊農家の子供は、商家に奉公に上がったり、農産物を売買するには読み書きや算盤は必須で、まさに生きていくためには否が応でも習得しなければならなかった。
ただ、学ぶ内容は限定的だったので、すべての子供が同じ知識を習得していたとは限らない。それぞれの学んだ施設(寺子屋)によって異なっていただろう。
限られた一握りの武士や商人、飛脚など以外、ほとんどの庶民は他藩の人間との交流はなく、一定の範囲の中で暮らしていたので、その範囲内だけでのコミュニケーションで事足りていたのだろう。それがさらなる方言の断絶を産むことになったと考えられる。

こうした環境から時代は明治になり、一気に人的交流が活発化し、異なった地域出身者同士の意思の疎通を必要とする時代になると、言語の標準化と共通化が必要となった。
この必要性を実現するために学校教育が生まれたのだと思う。
知識を高めるだけでなく、国民相互のコミュニケーションを活発にし、政府が発令した様々な施策を国民に理解浸透させるためにも、教育を推し進める必要があった。
ただ、教育を受ける機会に恵まれなかった世代の多くは、読み書きができないまま年をとり、新しい時代の流れに取り残される存在となった。

しかしながら、18世紀当時の先進諸国に比べ日本の教育レベルは高く、識字率だけを見てもイギリスの25%、フランスの9%に対し日本は70%と圧倒的に高い識字率だったことが、当時日本にやってきた外国人も認めている。


秋祭り原田神社に集まった勝部の男たち(大正末年)
上の写真を拡大
カメラがまだ一般庶民には手の届かない高価な品物であった時代には、写真に写ることも数少ない機会でした。村の大きなイベント、それは『秋祭り』です。
稲刈りも終わって農作業が一段落した10月半ば、原田神社は各地域からの神輿や太鼓の宮入で大賑わい。勇ましい若者達の姿。幼い子供たちもお揃いの法被に鉢巻。ここに写っている子供たちも存命ならば90歳近くになっていることでしょう。

写真中央辺りにいる父は16〜17歳ぐらい、同世代の幼友達も多く写っている。同級生の渡辺美次郎さん、遊上貞次さん、樋上兵一さん、田辺定治さん、吉森政治郎さんなど多くの若者たちの姿を見ることができます。

紋付に羽織袴姿の祖父は50歳過ぎたころ、村の何かの役をしていたのだろう。このように幼児から老人まで勝部の多くの男たちが集まって写した写真は数少なく、貴重な記録です。

そして、この頃はまだ女の子がお祭りには参加できない時代だったのです。
現在のような「ギャル神輿」など想像すらできない時代だったのでしょう。

2002年12月掲載

2006年の秋祭りへ



勝部青年団入団記念(大正末年)
満6歳で尋常小学校へ入学、6年後高等小学校へ、そして2年で卒業した若者たちの多くはそれぞれ家業を手伝ったり、地元の商家へ勤めたりと実社会へと旅立っていきます。中学へ進学する子もいたが、それは比較的裕福な家庭の子供たちでした。上の写真はそうした学業を終えた14歳の少年達が地元の青年団へ入団したときの記念写真です。明治42年生まれの父が後列右から三人目に写っている。その左には田辺さん、右に遊上さん、最前列には吉森さん、樋上さん、渡辺さんと同級生の顔にはまだ幼さが残るが、当時はこの歳で大人の仲間入りをするのが社会の通念でありました。
全員足にはゲートル(巻き脚絆)を巻いている。

父達が「豊南高等小学校」を卒業したのは、大正13年3月のことです。
「天橋立」で記念撮影