地図に見る戦後勝部の変遷
上の地図で見る現在の勝部の地勢は、西は千里川に、東は阪神高速11号線に挟まれた狭い土地の中に納まっている。千里川の西側は大阪空港の滑走路で、地名も南空港町となっている。
現在の勝部は地勢的に見れば阪神高速11号線で遮られ孤立した地域になっている様子です。

かつては広大な田園地帯で、向こうに見える伊丹市岩屋村をコの字型で囲むようにした、田園地帯が勝部の農地だったのです。

古くは日本の古代史にその名を残した大阪の一地方の古い村落が、時代の波に揉まれながら今日の過疎化を迎えるに至る原因となったのは、言うまでもなく空港の存在であることは事実です。

「伊丹飛行場」と呼ばれていた時代から「大阪国際空港」という名称に変わった空港の存在が、戦後の日本経済の発展に寄与したことは言うまでもありません。

ただその陰で衰退していく一つの村落の姿も見逃すことはできません。
戦後の高度成長期には200世帯を超える住民の居住地であったこの土地が、その後どのように変化していったのかを、それぞれの時代の地図を見ながらその変遷を追って見ました。

2008年3月更新
2015年9月16日資料を追加して更新

上記の地図は昭和28年(1953年)の勝部周辺の地図です。伊丹飛行場はまだ拡張前で勝部の村の西側と南側は広大な田園風景が広がっていました。岡町駅からの途中にあった「唐川池」も埋め立てられる前の状態でした。
地図を拡大して見ることができます。

拡大版地図
上の地図は当ホームページで何度も取り上げている昭和30年代後期の勝部の全景です。この地図ではまだ阪神高速11号線の計画段階で、「矢部牧場」の上を道路が通過していく計画が書き込まれています。

この阪神高速11号線に沿って、西へ大きく湾曲しながら「勝部橋」を超えて伊丹飛行場へ延びる道が旧歌島線と呼ばれていた当時の幹線道路でした。

この地図で見る限り勝部の集落を取り囲むのは一面の田園風景です。住民の多くが農家あるいは兼業農家で、サラリーマン家庭の中でもその多くが、地元農家の姻戚関係にある縁家でした。
上の地図は昭和38年発行の勝部の住宅地図ですが、まだ阪神高速11号線が出来る前で、千里川の西側にも30数軒の家がありました。

この数年前から勝部の世帯数は増えはじめ、昭和42〜43年頃にそのピークを迎えます。
昭和45年の大阪万博の開催に向けて「大阪空港」の拡張工事と農地の売却によって、勝部を離れる農家の人。その後の国による空港周辺整備計画と騒音被害による移転補償などで、さらに住民の離村が加速していきました。
昭和38年(1963年)当時勝部の自治会長を務めていた父が作成した「勝部住民名簿」が現存します。これは戦時中の「隣組」の編成を土台にしたもので、勝部地区を11の組に区分けして編集されています。

昭和30年代半ば頃から増え始めた勝部の世帯数が判るだけでなく、当時どのような人が住んでいたか、たとえ僅かな年数であってもそこに住んでいた人たちの実態を知る上で貴重な記録といえます。

これに記載されている名簿は「世帯主」の名前です。したがって家族全員の名前はなく世帯主だけが記載されたものです。

昭和38年12月現在の勝部の世帯数は206世帯だった。この中にはまだ僅かだが企業の社宅があってその住人も世帯数に含まれています。

因みに当時の全世帯の苗字を集計してみると、一番多いのが「田辺姓」で18世帯。2番目が「森田姓」で15世帯、続いて「遊上姓」と「渡辺姓」がそれぞれ6世帯。さらに「樋上姓」「山下姓」がそれぞれ5世帯という集計結果になりました。
勝部村の伝統的苗字について

もともと勝部は農村であるため江戸時代を通じて苗字を持たないで生活を営んでいたと考えられます。
ただ、江戸後期になると領主から苗字を名乗ることが許された一部の人もいたことは確かです。

そして、その苗字を名乗ることが許された人の身内(兄弟や子供)も同じ苗字を使うことで村の中に同姓が広がったと考えられます。

さらに幕末になると経済活動が活発になり、商売上の契約や金銭の貸し借りの証文には苗字を使うことが常態化していたのだろうと考えられます。

こうした江戸末期から使われはじめた苗字が戦後に至るまで引き継がれ拡大していったと考えます。
上の集計の結果として出た「田辺」「森田」「樋上」といった苗字はかなり古くから引き継がれてきた苗字だと言えます。
上の資料は明治七年の勝部村の「伊勢講勘定帳」に記載された講中のメンバーです。ここに書かれた九人の連名中「森田姓」を名乗っているのが二人。「樋上姓」を名乗っているのが三人います。
明治新政府が「平民苗字必称義務令」という太政官布告で、国民のすべてに苗字を名乗ることを義務付けたのが翌年の明治八年のことです。

当時の新政府による新たな制度が日本全国津々浦々まで行き渡るまでには、相当な年月が掛かったものと思われます。
そう考えると苗字はかなり以前から公然と使われていたことが伺えます。

さらに、明治新政府による「学制」の発布は明治5年。12年には「教育令」が公布されますが、ここに名を連ねている人たちは、すべて学校教育を受けた世代の人たちではありません。
武士階級であれば「藩校」で読み書きを習う機会もあったろうが、勝部の住人のほぼ全員が百姓の身分です(中には一部「大工」さんもいました)。

勝部のような当時の片田舎の百姓が自分の名前を漢字で書くことが出来たという事実は、いかに識字率が高かったかを証明する貴重な証拠です。
しかも書き馴れた筆跡を見ると、紙が貴重な時代でありながら、日常的に文字を読み書きしていたことが伺えます。
そういう意味では当時の日本の庶民の知的レベルは諸外国と比べて極めて高かったといえます。
上の資料は明治二十三年の「伊勢講勘定帳」に記載された連名記ですが、「森田姓」が一番多く、清治郎、武右衛門、権右衛門、治右衛門、長兵衛と五人が名を連ねています。「田辺姓」も与吉、守蔵の二人。
明治三十五年の記載には11人の連名中6人が「田辺姓」となっています。勝部には「田辺姓」がいかに多く、そして、古くから引き継がれてきたかが分かります。
下の地図では高速道路はまだ完成していないが、地道となる府道池田線が画かれている。「矢部牧場」は少し地面を削り取られ、「岡崎牛乳牧場」と変わっている。また岡町方面への北行きの道路横は田んぼだった。上下のどちらの地図も記載されているのは苗字だけで、しかも不正確な記述が多く見られる。
下の地図は昭和40年頃のもので、千里川の西一帯が広い田園地帯であった頃の様子が画かれています。
この当時千里川の下流に墓地と火葬場がまだありました。子供の頃、村で葬式があると村の子供たちは野辺送りの葬列に加わってこの火葬場までついて行ったものです。
それは、葬儀で供養として振舞われる”山菓子”が目当てであり、この”山菓子”はたいてい餅かまたは粟おこしだった。
赤いレンガで造られた火葬場は田んぼの片隅の寒々とした風景の中にあって、昼間でも子供が一人で行くには相当な勇気がいる場所でした。
下の地図は昭和43年のものです。所どころ氏名とも記述されているが、記述内容はまだ不正確で充分な調査が行われていないことが伺えます。

勝部の村の歴史の中で最も世帯数の多い時代であった頃の住宅地図で、この地図にはまだ「花太刀食品豊中工場」の記述があります。通称「ジャム工場」と呼ばれていました。いつ頃まで操業していたのだろうか。
下の3枚の地図は昭和45年のものです。
阪神高速池田線は全面開通し、滑走路の拡張工事が完了した「大阪国際空港」も開港しました。
これらの一大事業は、1970年日本で初めて開催される「日本万国博覧会=大阪万博」のためでありました。

そしてこの時から勝部の過疎化が始まったのです。すでに集落の周りには工場や倉庫が建ち始め、一部村の中にも住宅が倉庫に建て替わったところもあります。

すでに滑走路となった農地を手放した農家は、その対価として莫大な現金を手にし、いち早く御殿を建設する人もいて、村にバブルがやって来た時代です。

それまで見たことも手にしたこともない大金に、自分自身を見失った人もいただろう。
もちろん大金を手に入れても、堅実な生活を続けていった人も多くいたことは確かです。しかし、勝部の村の環境は否応なく確実に変化しました。

それは飛行機による騒音被害であす。この騒音は土地を持つ者、持たぬ者、金持ち貧乏人、農家非農家、分けへだてなく勝部に住む人々全てに重くのしかかったのです。この時代から勝部が一丁目、二丁目、三丁目という住所表記に変わりました。
さらにそれから10数年、飛行場が大阪国際空港としての役割が大きくなり、発着便数も増え航空機の大型化が進むと、より一層騒音問題が大きく取沙汰されるようになった頃です。

国と運輸省は「空港周辺整備機構」を通じて地域住民の移転を促した。このことにより勝部の村はさらなる過疎化が進むことになります。

下の地図は昭和60年ごろの勝部の村の住宅地図です。
村の周辺には工場や倉庫が増え、移転した住居跡の空き地も目立ちだした。
上の地図を拡大して見ることができます。地図拡大
上の地図は最近のものです。かつて勝部の村の中心であった場所の多くが空き地や緑地となっています。

さらに工場や倉庫や企業の名前が目立つようになって、昭和50年代に入って航空機による騒音被害が深刻な状況になり、大きな社会問題となってきて、国は騒音対策に乗り出しました。

運輸省(当時)の出先機関である「空港周辺整備機構」は騒音被害対策として、各住居家屋の防音工事費の国家負担をはじめとする騒音被害補償を講じると共に、住民の移転を促進する移転補償にも積極的に取り組みました。

土地や家を持たない借地借家住まいの住民にもそれなりの移転補償を行うことで、騒音問題の解消にあたった。そしてこのことが勝部住民の”勝部離れ”を加速しました。
昭和30年代、私を含め団塊の世代の多くの子供たちがこの村で育った。鬼ごっこや探偵ごっこで村中の路地を駆け回り、縄跳びゴムとびビー玉べったんボール遊びなど、子供たちの歓声が響き渡った村は、今やもうそれは”去年(こぞ)の雪”か、はたまた”うたかたの夢”であったかのように消え去り静まり返っている。