写真集・戦後の勝部の風景(四) 
レジャー時代の到来
戦後も昭和30年代後半になると、庶民の生活も安定し、池田内閣の所得倍増政策によりサラリーマンは収入が増え、農家は、特に都市近郊農家は潤った。中でも農協は全国規模の組織化で肥大し、金融機関としても莫大なお金を動かす事の出来る力を持った。全てが右肩上がりになり始めた頃である。

こうした時代、農協の旗の下、集団で小旅行を楽しむ機会が多くなった。
会社勤めのサラリーマンなら、社員旅行や慰安旅行などで近場への旅行の機会もあるが、農家の人たちには個人で企画する以外にこうしたチャンスはなかったし、自分たちで企画して旅館や交通機関の手配などするすべも持たなかった。

学校のPTAの催し、農協の婦人部、老人会などの催しで、日帰りや一泊どまりの旅行が企画されると、多くの住民が参加した。そこには、企画立案からスケジュールに至るまで、全てを旅行業者が準備して、参加費用さえ払えば、”あとはついて行くだけ”と言った手軽さがあった。

個人や家族単位で行く旅行に比べ、安上がりでもあったことが支持された要因であったろう。
掲載している多くの写真は農協の婦人部や村の婦人会などが主催したツアー旅行の写真です。

2004年6月10日更新
上の写真は昭和37年4月に「びわ湖めぐり」のバスツアーでの集合写真です。
勝部のご婦人方だけでなく利倉からも参加されています。おそらく農協の婦人部が主催した企画だったのでしょう。農家の人たちだけでなくサラリーマン家庭の女性も多く参加されています。まだこのころの女性の外出着(よそいき)は和服が主だった時代でもあります。

昭和30年代後半から40年代にかけて、こうした催しが毎年のように行われていました。それはこの時代から都市近郊農家の生活が見違えるほど豊かになっていったことの証しでもあります。
上の写真を拡大します 拡大
昭和42年9月、勝部の人たちが大挙して「びわ湖紅葉パラダイス」へ
 上の写真を拡大して見ることが出来ます。
上の写真を拡大します
当時の勝部の住民には、「農家」「非農家」と言う区分概念が存在した。旧来からの農家と新しく他所から入ってきた住民や、地元農家に生まれ育った女性がサラリーマンの男性と結婚し、村の中に住まいを得る場合もあり、こうしたサラリーマン家庭と農家との区別化があった。

戦後も昭和30年代に入ると、大阪のベッドタウンとしての位置づけから、サラリーマン家庭の世帯数が増え、昭和30年代末にはその世帯数が200を超えるに至った。そして、純然たる「農家」は少数派となった。しかし、従来からの住民と新しく入ってきた住民との間で取り立てて軋轢やトラブルもなく、旅行の企画があると皆仲良く連れ立って出かけた。

ここに掲載してある多くの旅行の写真には「農家」「非農家」の人たちが入り混じって和気あいあいとした表情で写っている。
朝日放送のテレビ開局間もない頃の見学会(写真上)
前列左端の和服の老人が在野の郷土史家、田邊太市郎氏
写真の拡大
田邊太市郎氏の「豊中市勝部史」について

在野の郷土史家、田邊太市郎氏については詳しい経歴など一部の年配の方々以外はほとんど知られていないが、氏が残した自費出版「豊中市勝部史」は、わが国の古代史における勝部の成り立ちを氏独自の視点でとらえ、従来の「大陸渡来説」の裏づけを詳しく解説記述した内容で、様々な古文書からの引用と古老から語り継がれた言い伝えなど織り交ぜ、古墳時代から古代、中世にわたる勝部の歴史を学術的に検証した唯一の書物であります。

巻頭には京谷政治郎氏、田辺寛二氏らの協力による写真を掲載し、僅か47ページの小冊子ではあるが、当時の時代を顧みれば一個人の仕事としては特筆すべき業績であると言えます。

表紙以外は手書きの鉄筆による謄写版印刷で、まさに手作り感覚そのもの。奥付には昭和36年12月25日とある。コピー機や精密高度な印刷機、パソコンなどが無かった当時の状況を考えると、この仕事がいかに想像を絶する困難な作業であったかが伺えます。

特に、発行に至るまでの編集、校正、印刷という一連の作業をすべて手仕事で
行い、しかも70歳というお歳で上梓されたことも付け加えておかねばなりません。まさに氏がライフワークとして、彼の一念を貫いて完成された作品と言えましょう。

さらに、この「豊中市勝部史」の完成を待たずして愛妻に先立たれたその胸中を、編集後記の短い文章に修められています
完成の喜びを分かちあえるはずだった最愛の伴侶を亡くしたのちは、近所の子供たち(主に小学校高学年〜高校生)相手に勝部の村の歴史を教えるべく、自宅に子供たちを招いて講義などされていたようですが、村の多くの大人たちからは胡散臭く思われ、ある種”変人”扱いされ疎外されるような扱いを受けました。その後孤独な晩年を送られたと伝え聞いております。
現物は豊中市立図書館に所蔵されています。我が家にも一冊残っています。


田邉太一郎氏自身の記述内容から計算すると、彼は明治24年(1891)生まれ。明治41年(1908)池田師範学校(現大阪教育大学の旧池田分校)に入学と同時に寄宿舎へ入る。とありますので、教師を目指されて師範学校に入学されたようです。その後、昭和10年に帰郷(勝部に戻ってくる)と書かれていますので、この間、教職に就かれていたのだと推測します。あるいは勝部に戻ってきた後も引き続き教職にあって、自宅から赴任先へ通われたことがうかがえます。
田邊太市郎の遺作『豊中市勝部史』は彼の生涯を掛けた言わばライフワークである。背表紙の内側には「編集後記」に代えた『述懐』として自らの心情を綴っている。子供のいなかった彼にとって本誌の完成まで幾度となく妻に語って聞かせてきたことだろう。そういう意味でも彼にとって最もよき理解者を亡くしたことへの悲しみは察するに余りある。