写真集・戦後の勝部の風景 (一) 村の中の風景
戦後も昭和30年代半ばになると日本の高度経済成長期に伴い、勝部の村も商業都市大阪のベッドタウンとして新しい住民が増え始めた。地元の若者達も大阪市内や近郊の会社に勤める者も増え、農家も自ずと兼業化し、農作業に従事するのは専ら中高年の役割となった。
この傾向は都市近郊農家だけでなく、全国的な広がりを見せ、地方の若者は学校を卒業すると集団就職で都市へ働きに、残された家族で農業を支えていくいわゆる「三ちゃん農業」の時代になる。

(「三ちゃん農業」とは・・・一家の大黒柱が出稼ぎに出て、若者は都市へ集団就職、残った爺ちゃん婆ちゃんカァちゃんの3人で農家の仕事をすることを言った当時の流行語)


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上の写真は昭和33年(1958)頃の秋祭り。農作業の一段落した10月9日、説教所で組み立てられた”太鼓”(神輿)を担いで村中を練り歩き、夕方から岡町の原田神社へ奉納する。村の角カドには御神燈を灯し、その年の豊作を祝う。子供たちにとっても年に一度の楽しい”お祭り”だ。
写真に写っているのは太鼓(神輿)のかつぎ手の若者。当時の10代後半から20代後半の昭和ひと桁から昭和15年頃に生まれた若者たち。神輿に乗って太鼓をたたく子供たちは戦後生まれの団塊の世代が中心。それに神輿を誘導する年配者、炊き出しを手伝うおばさんたち。
担ぎ手の若者達も今では80歳を過ぎた年齢になっているだろう。太鼓を叩く子供たちはそろそろ古希か、場所は千里川に架かる神明橋の東たもと。4人の子供を乗せた太鼓は長い”唐来の坂”を担いで上っていく、原田神社の境内には様々な夜店が出て賑わう、そこへ続々と近隣の村々から神輿がやってくる。とっぷりと日が暮れた7時ごろから神輿の”宮入”がはじまる。いわゆる原田六郷の氏子の集合。かがり火に照らされた獅子舞の姿。当時の”お祭り”にはそれなりに祭りの”趣旨”が生きていた時代だった。

2006年9月12日更新
2006年の秋祭りへ

下の写真は上の写真の丁度反対側、神明橋の西のたもと。木製の橋の欄干が写っている。
千里川の西側の家を村では通称”川向こう”と呼んでいた。
正面の瓦屋根の家は遊上家。その右手には当時郵便局に勤める傍ら運営されていた吉田さんのそろばん塾があった。
そろばん塾は遊上家の納屋を改造して教室が作られていた。
このそろばん塾には村の我々世代の子供たちの殆どがお世話になった。勝部の村だけでなく原田や走井、岩屋、利倉辺りからも通ってくる子供たちもいた。その吉田さんのお住まいが写真の左手にあった。そろばん教室は学校の授業が終わった午後3時半ごろから初級者(小学生)を対象に吉田さんの奥さんが始められ、郵便局のお仕事が終わった6時ごろから、吉田さんご自身による上級者の授業になる。生徒達は吉田さんご夫婦を”そろばん屋の兄ちゃん姉ちゃん”と呼び、親しみを持って接していた。
昭和35年(1960)頃の風景。


 
 千里川に架かる「神明橋」川の一部分だけ堤防が石垣とコンクリートで補修されている


上の写真は千里川に架かる南高橋から東側の家並みを写したもの。道の奥に村の中心で道路が交差する通称”村の四辻”があった。左角に駄菓子屋があり子供の頃しょっちゅうお世話になった。さらにその奥には村で唯一の散髪屋さんがあった。この道を真っ直ぐ東へ行くと歌島線(現在の阪神高速池田線)を通り抜け原田へと通ずる道である。


上の写真は勝部の村を南北に縦断する道から東南方面の田園地帯を写したもの。写真中央にうっすらと着陸態勢に入った飛行機の姿が写っている。この道に沿って農業用水路があった。左の建物は通称”ジャム工場”と呼ばれていた『花太刀食品勝部工場』昭和35年(1960)頃の風景
「花太刀食品工業梶vはこの当時本社が大阪市西成区にあって、業務用ジャムやペーストの製造を手がけていた。現在は奈良県田原本町に本社を置く。


上の写真に”ジャム工場”の全景が写っている。周りは一面の畑。道に沿った農業用水路も雑草に覆われていた。毎年5月ごろのイチゴが採れる季節になると工場が稼動する。あたり一面にイチゴの甘酸っぱい香りが漂い、工場の正面の囲いの中では”イチゴのヘタ取り”をするアルバイトのオバサンたちの姿が見られた。
小学校の頃、学校からの帰り道、勝手に工場の中へ入って、ジャムが作られる工程をランドセルを背負ったまま飽きもせず眺めていたものだ。
工場の隣に工場長ご夫妻の住まいがあった。
昭和37年(1962)頃の風景



昭和35年(1960)頃の我が家の全景。家の前には小さな畑があり、父が勤めの傍らに野菜を作っていた。
ホウレン草、水菜、ネギ、キャベツ、トマト、キュウリ、豆類、と一畝ごとに違った季節の野菜を作っていた。時にはプリンスメロンやスイカなども作って毎日の食卓を賑わした。庭の左手には丸く刈ったキンモクセイの木。毎年秋になると小さな黄色い花が咲き、独特のいい香りが漂い道行く人を楽しませた。
今でもキンモクセイの香りを嗅ぐと我が家の庭のこの木のことを思い出す。
 
 昭和27年(1952)頃の写真、
左上に写っている瓦屋根は、戦前の勝部の地主の1軒で通称「南遊上さん」と呼ばれていた遊上家の屋敷。
戦後GHQの指令による農地解放で、当時の急激なインフレによって、タダ同然の値段で所有農地が小作人に譲渡され、没落の一途をたどった。
 

昭和30年代半ばごろの勝部村全体を画いた絵地図
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村の東側から我が家の方角を写した昭和30年代半ば頃の風景。あたり一面広々とした畑が広がっていた。


 当時このようなテレビのコマーシャルが流行っていました