豊中一中ラグビー部の思い出
奥俊治先生が亡くなられて早いもので、すでに7回忌を迎えることになった。
豊中一中ラグビー部の我々世代のOB達にとって、奥先生は忘れ難い偉大な存在である。
当時中学生であった私にとっての奥先生の印象は、”恐い・厳しい”というものであった。
小柄ではあったが、がっしりとした引き締まった体に、ハガネのような太ももが印象的だった。
そして、ラグビーの指導は技術的なものよりも、むしろ精神的な指導に重点を置かれていたようだった。
その精神とは、「ONE FOR ALL, ALL FOR ONE」即ち、ひとりは皆のために、皆は一人のために。という指導であった。
この教えは、広く多くの教え子たちに伝えられ、今もわれわれ一人一人に受け継がれている。
その後、奥先生は二中、十三中、八中、十中と異動され教頭、校長になられてからもずっとラグビーの指導を続けられた。その奥先生との再会が1997年の5月18日。豊中市内のホテルでの「奥先生の古希をお祝いする会」であった。
実に33年振りのことだった。そしてそのわずか半年後に急逝された。あっけない別れだった。


2003年11月25日更新

奥先生の古希をお祝いする会」(ホテル・アイボリー)での参加者全員の記念写真
1997年(平成9年)5月18日




大西先生も交えた当時のラグビー部のメンバーとの記念写真





この「祝う会」の参加対象は、ラグビーの指導を受けた生徒のほか、
3年間に一度でも担任として受持っていただいたことがある生徒たち

中には3年間全て奥先生が担任した生徒も数人いた。


 
 奥先生と当時のレギュラーメンバー15人(1963年豊中一中グラウンドにて)
 
 当時の試合用ジャージの色を再現し写真をカラー化(豊中五中出身の岸本さんからの提供)
 
 1963年(昭和38年)当時の3年生、左から山田、鳥山、辻村
 
 当時の練習用ジャージの色を再現しました(豊中五中出身の岸本さんからの提供)



1963年8月、秋の府の大会に向けて、夏休み中の練習に参加した当時の部員
黒っぽいジャージは一年生部員

胸に太い白線の入った試合用の新しいジャージを着て

1963年8月27日、豊中第七中学と練習試合。43対3で大勝
当時ラグビー部のある中学は市内ではこの2校のみだった。




1963年4月26日、毎年恒例の先生との交流試合の後(上下)


1963年当時中学3年生。夏休み中の練習後、体を洗って着替える前にそれぞれの肉体美を競ってカメラに・・・
14.5歳のまだ少年の体つき。この頃が一番楽しい時代だったのかも知れない・・・・・





1963年中学3年当時の対旭陽中学戦のライン・アウトの模様。
この試合は右ロックで出場。前からプロップ石河、私、フッカー宮本、フランカー鳥山、プロップ平岡。
背景の石垣で判るように、場所は大阪城公園ラグビー場。
その後このラグビー場での試合は高校時代も含め、数十試合に及ぶ。
まさに、血と汗と涙の染付いた青春時代の思い出の場所である。


それから33年後の1996年5月、「大西先生の退官をお祝いする会」を大阪市内で開催。
卒業以来の懐かしい顔も、逢えば気持ちは昔のまま、歳月を感じさせない。
上の写真と見比べて、どれが誰だか判断できるのは写っている本人たちだけかも知れない。
30余年の歳月が少年たちの姿形を大きく変えてしまった。体重が5割増しになった者、頭髪が7割減になった者。





二学年下の後輩たち四人も参加してくださった