写真集・戦後の勝部の風景(二) 
子供たちのいる風景-ラジオ体操
夏休みの朝はラジオ体操から始まる。小学校に通う子供たちの日課はラジオ体操から。村の中の原っぱに集まって一せいに体操を始める。近所の家からラジオを借りてくる、当時はラジカセのような便利なものがない時代、NHKの生放送の時間に合わせて集合。保護者も当番制で付き添う。参加者は毎朝首に掛けた出席カードにハンコを押してもらい、皆勤すると文房具などの賞品が貰えた。
当時村の中にはこのような原っぱが幾つかあって、ボール遊びや探偵ごっこ、鬼ごっこなど子供たちの格好の遊び場であった。朝露に濡れた草の感触、自転車の形も懐かしい昭和30年頃。
背景に写っている建物は当時養鶏場を経営されていた浜中さんのお宅です。
ラジオ体操の歌 
当時ラジオ体操が行われていた場所は下の地図のB赤丸)地点辺り。
ラジオ体操が終わった後に「村の中の道路掃除」がまっている。箒と塵取りを家から持ってきて、各班ごとに自宅の近辺の道路を清掃する。掃除の出来具合を監視するのは各班の担当保護者(主に母親)が受け持つ。写真の場所は上の地図のC地点辺り。昭和30年頃の写真。この頃の村の中の道は舗装がまだで、雨が降るとぬかるみ、水溜りが出来き、晴れの日が続くとホコリが舞い上がる。道の横に停めてあるのは農業用の荷車で牛が引っ張っていたが”馬力(ばりき)”と呼んでいた。民家の板塀に何やら張り紙が貼られている。拡大して見ると『伊丹飛行場拡張工事絶対反対』と書かれている。この頃すでに伊丹飛行場の大阪国際空港化へ向けての拡張計画は具体化していた。そして、昭和40年代初頭には勝部の農家にある種のバブルがやってくる。
昭和30年頃の子供の遊び場所は専ら家の外であった。空き地や原っぱ、村の中の路地など、いろんな年齢の子が混ざって遊んだ。そこには幼いながらも年功序列があり、また小さな子に対するいたわりの気持ちもあった。些細なことでケンカが起きても誰かが仲裁に入り、翌日には仲直り。今の時代のような豊かさはなかったが、穏やかな時代で子供同士の過剰な競争心や妬みや苛めが発生する要因は少なかったように思う。
 
 道路掃除の反対側の家並み。突き当りの家が石橋家の昔の家。どの家も農家の庭は広かった1960年頃。
(写真上)猪名川上流の鶯の森での水浴。 (写真上)勝部のイチゴ畑で。
(写真上)森田一之さんの門の前で孫の雅行さん(右)と親戚の福田由紀子さん。
(写真上)上と同じ場所で森田雅行さん、私、隣家に住んでいた中条さん姉弟。
当時は写真を写す機会が少ない時代で現存する写真の数も少ない。昭和28〜9年頃。
(写真上)ご近所で育った仲良し二人、福田さんと間柴さんの同級生。乳母車の形も懐かしい昭和27年頃。
(写真左上)右端に福田さん、その隣で三輪車に乗っているのが間柴さん。(写真右上)50数年後の間柴さん。現在名古屋の大学で教授として研究活動されています。
(写真下)勝部の子供たち。服部緑地公園の花時計の前で、幅広い年齢層の子供が写っている。

昭和30年頃
2009年11月15日 写真を追加して更新・