1970年大阪万国博で何がどう変わったか
 
2025年は関西大阪万国博覧会の年になるそうだ。
1970年の大阪万博を21歳で体験した私にとって、あの当時の万博に対する世の中の雰囲気と比べ、今回はなんとなく盛り上がりに欠けるような気がする。
日本全国の万博に対する期待感が薄い感じがする。当時の大阪は特に大阪北部地域=会場となる吹田市周辺の茨木、豊中、池田各市は地域のインフラ整備が進んで急激に様変わりした。

会場へ人を運ぶための鉄道路線の延長、新しい駅の開設。幹線道路の整備、阪神高速道路の延長(池田線=空港線)大阪国際空港の整備と滑走路の拡張もその一つで、北摂地域が大いに盛り上がりを見せた時代だった。

開催前年の1969年当時、大阪市北区にあった大手書店の新店舗開店準備に関わっていた私は、堂島にあった大手出版取次「日販=日本出版販売㈱」に毎日通っていた。
搬入倉庫から梱包を解かれた新刊書の中に数知れないほどの万博関連書籍や雑誌類の多さに驚いたものだった。

『こんなに出して売れるんかいな・・・』と思ったものだが、今から振り返ればこの時代が出版業界の最盛期だったのかも知れない。何でもかんでも出せば売れる時代だった。

この当時、私は梅田から堂島周辺が仕事と日常生活の場所だった。
朝9時ごろから夜の10時ごろまでこの辺りで過ごすことが日常で、豊中市の自宅には”寝に帰る”だけの日々だった。

当時の国鉄大阪駅周辺はまだ戦後の風景を残していて、大阪駅北側は薄暗い景色で「大鉄局=大阪鉄道管理局」の大きな建物が存在感を示していて、その周りも殺風景な雰囲気が漂っていて人通りも少なかった。

大阪駅前の一角にはまだ木造の店舗が密集していた地域があり、小規模のパチンコ屋、飲み屋、喫茶店、大衆食堂、中華料理店、麻雀屋などがひしめき合って、薄暗い路地に入ると怪しげなおばさんが声を掛けてくることもあった。

こうした風景も大阪万博のあと急激に変わっていくことになる。
1960年代に「大阪駅前市街地改造計画」が始まり、密集した木造店舗の立ち退き交渉が進められた。
これによって数年後には密集した木造店舗も、迷路のように入り組んだ路地も、すっかり姿を消して”小奇麗な街”に変貌した。
地下鉄梅田駅改札口周辺で切符を売っていた割烹着姿のおばさんたちもいつの間にか姿を消した。

地下鉄改札口西側の阪神百貨店横の、地下街の壁に張り付いたように並んでいた都道府県ごとの土産物を売っていた店=(通称アリバイ横丁といっていた)などもいつしか無くなって、その少し外れた場所で物乞いをしていた老人の姿も消えた。

大阪万博から50数年、長かったのか短かったのか、もう古希を過ぎてさらに年を重ねてきたが、あの頃の風景は今も記憶に残っている。

今回のページは50数年前の大阪の風景を思い出して、あの頃から何処がどのように変わったのかを検証してみたい。
当時の写真などは手元にないが、当時の地図は入手できたので、地図をもとにあの時代を振り返ってみたい。

2023年7月15日 1回目更新

 大阪駅周辺 ― 駅前木造店舗密集地
 
1960年ごろの大阪駅前 
1960年ごろ、万博開催10年前の大阪駅前は阪神百貨店の西隣に第一生命ビルがあって、この二つが大きな建物で、それらの南側と西側の狭い一角には木造の小さな店舗が密集していた。 

大阪駅前ビル(第一~第四)もマルビルもまだ出来ていなかった。
 
第一生命ビルの西南の一角には現在(2023年)も場所を変えて営業している店がいくつかある。

「ニュートーキョー」は第一生命ビルの地下に入って営業中。
おでんで有名な「たこ梅」は新梅田食堂街で現在も営業中らしい。

「旭屋書店」は当時はかなり老朽化した木造2階建てで、階段を上るときギシギシと音がした。
「旭屋書店」別館横の路地の角に「珉珉」があった。

餃子の「珉珉」はお初天神の通りの路地を入ったところで健在。
昨今餃子といえば「王将」が店舗展開で勢いがいいが、「珉珉」も根強いファンがいる。私もその一人だ。若いころお腹一杯たべても安くて美味しい人気の店だった。

「珉珉」もそうだが、「スタンド」という表記についてその定義がよくわからないが、「正起屋」もあのころよくお世話になった。特に「正起屋」の「とり弁」は好きな食べ物だった。今も三番街やホワイティ-うめだの店で味わうことができる。昔と味はちっとも変わらない。

それにしてもこの狭い一角に雀荘だけで10店舗もあり、パチンコ屋が3軒存在した。
当時のパチンコは立ったまま球を入れながら弾く機械で、タバコの煙が充満していたのを思い出す。
 
 阪急三番街の正起屋(2023年)
 
阪急三番街の正起屋のランチメニュー(2023年) 
50年以上経った今でも中津の病院の帰りに立ち寄って食べる。最近はもっぱら「花そぼろ弁当」を好んで食べている。値段のお手ごろ感は今も変わらない。
 
 「ニュートーキョー」は阪神百貨店西隣の第一生命ビル地下で営業中
 
 木造の店舗が密集していた場所には現在(2023年)ヒルトンプラザ・イーストが建っている
 
 上の地図は「大阪駅前第一ビル」の建設工事が始まったころの1968年。
「大阪駅前第一ビル」は大阪万博開催の年の1970年4月に竣工します。東隣の「第二ビル」はこの時期用地の収用が完了していないので「建設予定地」となっています。1976年に竣工します。

これより北側に建設予定の「大阪マルビル」は「吉本本社ビル用地」となっていて、このビルは1976年に開業します。
 
桜橋交差点西側から見た「大阪駅前第一ビル」 このときすでに築53年になります
 
 高層ビル群に囲まれた「大阪マルビル」
 
大阪マルビルは1976年3月に竣工、工事中の大阪駅前第二ビルは11月に完成します
駅前第四ビルが建つ予定の木造店舗群の立ち退きが進められています 
 
 
「出入橋」と「船溜」 
  大阪駅西側桜橋からさらに西へ200メートルほど行くと「出入橋」の交差点が見えます。
ここには元々橋が架かっていた。その橋の名前が「出入橋」。
大阪駅西側にある「船溜」と堂島川を結ぶ水路(梅田入り堀川)に掛かっていた橋で、船溜も水路も1960年代まで残っていた。その後埋め立てられたが橋だけは今も残っている。

大阪は川や堀が多く昔から水上輸送が盛んでした。明治に入って鉄道が敷かれ大阪駅が物流の拠点となると、水上輸送と鉄道貨物を結びつけるために新たな堀川が作られた。堂島川から大阪駅の貨物列車を繋ぐ水路と水上輸送の船を留ておく船溜まりが出来た。その水路に架けられた橋が「出入橋」です。
船が「出入り」することからこの名がつけられたそうです。
 
現在(2023年)残っている橋は昭和10年に付け替えられたもので、水路はすでに埋め立てられ、その上部に阪神高速道路の出口のスロープがあり、信号の標識などにその名が残っています。
 
 国道2号線には「出入橋」と「新出入橋」の標識が残っています。橋のすぐ横に有名な「きんつば屋」の店があります。
 
 
出入橋 きんつば屋の店構え 
 
 明治43年発行の上の地図には堂島川から北に水路があり、大阪駅の西側に船溜まりが描かれています。この船溜まりから荷揚げして鉄道貨物に積み替える作業が行われていたようです。

船溜まりのすぐ南に「でいりばし」と表示されているのは阪神電車の駅です。
明治38年(1905)開業の阪神電車は「神戸三宮駅」―「出入り橋駅」間を本線として運行を始めました。この出入橋駅は大阪側のターミナル駅だったのです。その後ここから400メートル東に「梅田駅」ができたことで、昭和23年(1948)に廃駅となりました。
 
昭和5年(1930年)の地図では「梅田入堀川」はさらに北へ伸びて、船溜は線路の北側に作られ、その横の「荷揚場」が貨物の線路の直結した形になっています。これは大阪駅から貨物専用の駅が分離され、大阪駅は旅客専用の駅となったためだということです。
 
阪神電車は梅田駅が始発駅で次が出入り橋、その次に福島駅となっていました。 
 
 「阪神電車唱歌」の歌詞2番には「賑わう旅客の出入り橋~」と唄われています。

「阪神電車唱歌」は『汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり~ 』で始まる有名な「鉄道唱歌」の大和田建樹が作詞しています。

大和田建樹は安政4年(1857年)の生まれで、東京高等師範学校(現筑波大学)の教授などを勤めながら創作活動を続け多くの唱歌の作詞を手掛けています。
『夕空晴れて秋風吹き月影落ちて鈴虫鳴く~』で有名なスコットランド民謡「故郷の空」も彼による作詞です。

「阪神電車唱歌」はyoutubeで見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=-xbDa1xH4G4

 
「出入橋駅」があった場所は現在「西梅田公園」になっています 
 
 
梅田‐映画館劇場街
 阪急梅田駅東側には劇場や映画館が集まった地域がありました。「封切館」と呼ばれる新作が初めて上映される映画館が多く、常に欧米の話題作が上映されていた。当時の若い映画ファンにとって新作映画を誰よりも早く見たことが自慢になった時代だった。当時映画は娯楽の中心だった。

「梅田コマ劇場」「北野劇場」「梅田スカラ座」「東宝会館」「梅田劇場」「OSシネラマ」など多くの映画館や劇場が集まった一角でした。

「OSシネラマ劇場」は幅広いワイドスクリーンで音響効果も迫力があって見応えがあった。

高校時代、梅田コマ劇場に併設の「コマ・ゴールド」で洋画をよく見た。2本立てで100円という安さだった。夏休みの間クラブ活動の練習が午後3時からだったので、母親に弁当を作ってもらって朝1番から映画館に入って、見ながら弁当を食べ、見終わってからクラブの練習に行ってた。朝一番の一回目の上映は客も少なくガラガラだった。

「コマ・ゴールド」では入場すると定期券入れに入る大きさのカレンダーが貰えて、裏面には次回以降の上映スケジュールが書いてあった。それを見ながら『次は何を見ようかな・・・』なんて考えていた時代で、生涯で一番多く映画を見た時期だった。
封切から数年遅れの作品ばかりだったが、安いことと2本立てが魅力だった。

当時見た映画を思い出していくつか紹介します。
   
   
   
   
   
   
   
   
 この時代の映画作りは金と時間と多くの人を使った壮大なスケールの作品が多かった。全世界に向けて配給されるのでそれなりに収益が出たのだろうが、今日のようなCGを使った作品に比べ迫力と見栄えが桁違いだった。
宣伝文句にも「一大スペクタクル」という表現が使われていた。
 阪急電鉄グループの勢力
 当時映画館や劇場が集中していた場所には2023年現在「ヘップファイブ」「ヘップナビオ」という複合商業施設が建っている。「ヘップ」の名称は「Hankyu Entertainment Park」の頭文字から取ったもので「阪急阪神東宝グループ」の施設です。「東宝」は映画会社として名前が通っているが、元々は阪急電鉄の小林一三が東京で演劇、映画の興行を目的として設立した「東京宝塚劇場」という会社で、「東京宝塚」を略して「東宝」となったのでした。
 
 
梅田コマ劇場や北野劇場などがあった場所を西側から眺める 
 
大阪駅北側一帯 
 
大阪駅北側は表側(駅前)に比べ殺風景な風景で重厚な「大阪鉄道管理局=通称‐大鉄局」の建物が存在感を示していました。当時の国鉄(日本国有鉄道)は巨大な国の企業で地域ごとに管轄する組織があって、大阪にはあと一つ「天王寺鉄道管理局」の二つの管理組織がありました。

建物の中には「大阪陸運局」「国鉄関西支社」乗務員らの「宿泊所」「鉄道病院分室」広告宣伝物や切符などの「印刷場」などがあり、さらにその北側には「保線」「電線」「信号機」などの鉄道の管理保全に必要な資材の倉庫、機械設備などを組み立てる工場などがありました。鉄道を管理するための全てが集約された地域でした。

我々世代にとって私鉄に対して国鉄という認識が根強く、民営化されJRと呼び名が変わってからも、未だに「国鉄」という意識は変わりません。

中学生のころ、ラグビーの試合で大阪城の堀を埋め立てた「大阪城公園ラグビー場」へ行くために、環状線で大阪駅から森ノ宮まで電車に乗った時、手に持った切符が、阪急の切符に比べ厚紙で固い紙だったのが印象にありました。

この時代はまだ自動販売機のない時代だったので、窓口で行き先を告げて切符を買う仕組みでした。
 
当時国鉄がプロ野球の球団を持っていた 
 「特急ツバメ号」にちなんで「スワローズ」というチーム名。現在のヤクルト球団
   
 
   
 
 
「大阪鉄道管理局」があった場所にはヨドバシカメラなどが入った複合商業施設になり賑やかになった 
 
この続きは後日掲載していきます