戦後の勝部の風景
 ⑧ 子供の頃の思い出 ・ テレビの時代 
私の子供の頃=主に小学生の頃、他の世代との大きな違いは、テレビが一般家庭に普及したことによる生活様式の変化だと思います。
特に娯楽、家庭内での生活の在り方にテレビが深く入り込んできたことです。

私の家にテレビが来たのは昭和34年4月8日のことです。小学校5年生でした。それまではテレビのある友達の家に行って、見せてもらっていました。従ってテレビのチャンネルを変える権利はありませんでした。その友達の家族が見ている番組を見ることしかできなかったのです。
それが、我が家にテレビがついたことで、自分がチャンネルを自由に変える権限を得たことは画期的な出来事でした。
『自分が見たい番組を見ることができる』という現実は実に嬉しいことでした。

ただ、兄姉が多くいてチャンネル争いが勃発することになります。

それまでになかった”テレビ”という存在が、家に設置されたときの感激。他の家電製品とは違って、子供に与えた影響は計り知れないものがありました。子供にとって、テレビの出現は新しい世界が広がったといえるでしょう。

このページでは、テレビが普及し始めたあの頃を振り返って、当時の世相や出来事を紹介していきたいと思います。

2021年1月11日 更新
 
上の新聞は昭和33年(1958)12月31日の朝日新聞大阪版です。大晦日のラジオ・テレビ欄のページです。 
この時代はラジオが主流で、ラジオの番組欄に比べ、テレビ欄は4分の一のスペースです。
大阪地方でのテレビ放送はNHK と民間放送3局(大阪テレビ・関西テレビ・読売テレビ)の4つのチャンネルのみでした。
「大阪テレビ」は毎日新聞、朝日新聞、とラジオ局ABC、NJBの4社が合同で設立した西日本最初の民間テレビ放送局で、翌昭和34年に朝日放送テレビと改称。その同じ時期に「毎日放送テレビ」が開局し、在阪テレビ局が4局となりました。
 
 NHKは大晦日恒例の「紅白歌合戦」が9時10分から放送。この年は第9回目ということです。「紅白歌合戦」が終わればニュースを挟んで「ゆく年くる年」。そういえば、当時は民放3局も同じ映像を流していました。
どのチャンネルに合わせても同じ映像でした。
この「ゆく年くる年」が終われば画面は”砂あらし”になって、大晦日のすべての番組は終わりでした。今のように朝までそのまま放送が続くことはありませんでした。
 
 昭和33年「第9回紅白歌合戦」の紅組白組それぞれの出場歌手は上の通りです。
紅組司会は黒柳徹子、白組は高橋圭三アナウンサーがつとめました。こうしてみると黒柳徹子という人のタレントとしての寿命の長さに驚かされます。

当時を振り返って、子供心に感じたことは『お年寄りの歌手が多いなぁ』という印象でした。子供の眼から見れば「お年寄り」というイメージの歌手が目立ちました。

この年の出場歌手の中で最高齢は、松島詩子の明治38年生まれで53歳。続いて、淡谷のり子が51歳。ディック・ミネが50歳。渡辺はま子が48歳。伊藤久男が48歳。林伊佐緒が46歳という明治生まれの6人が入っていました。
     
松島詩子―53歳   淡谷のり子―51歳  渡辺はま子―48歳
 
     
ディック・ミネ―50歳   伊藤久男―48歳  林伊佐緒―46歳
当時の子供の眼から見れば「お年寄りの歌手」と思っていたが、実際はそれほどでもなかったようです。 

因みに2020年第71回紅白歌合戦の出場歌手の最高齢は五木ひろしの72歳。続いてさだまさし68歳、天童よしみ66歳。松任谷由美も66歳。郷ひろみ65歳。鈴木雅之64歳です。
昔の子供から見れば、もうヨボヨボの爺さん婆さんが歌ってる。と思っただろう。

あれから60数年で日本人の平均寿命も伸びて、紅白の出場歌手も高齢化が進んだということか。
そういえば、子供の頃に習った童謡に『村の渡しの船頭さんは今年60のお爺さん』というのがあった。今年60ということは、満年齢で59歳。昔は数え年で言っていたので実際は58歳だったのかも・・・。

それにしても60代70代の高齢の歌手を夜の夜中に引っ張り出して、歌を唄わせるなんて”老人虐待”と非難されないのだろうか・・・可哀想に・・・。
 
 
テレビ欄の下に大阪梅田にある阪急百貨店の年末年始の営業の案内広告が出ています。
元旦から5日まで休みで、新年は6日からの営業となります。これは当時の商店や企業の営業形態が殆ど同じで、一般庶民の生活が『正月は休むもの』という通念が全国一律に浸透していた時代でした。

特に飲食店や生鮮食品を扱う店舗では、卸元や流通機構が休みのため商品を店頭に並べることができなかった。
今のように冷蔵庫や冷凍設備が普及しておらず、食料品を長期保存するパッケージ技術も発達していなかったため、生ものを扱う店は休まねばならなかったのです。

 当時、日本国内では「スーパーマーケット」という業態は存在しなかった。食料品や生活必需品を調達するには主に商店街、市場、個人商店を利用し、これらの店も一般庶民と同じように正月は店を閉めて、家族そろって正月を祝うのが常であった。中にはおもちゃ屋や本屋など子供のお年玉を目当てに店を開いていることもあったが、元旦は店を閉めているのが殆どでした。

もちろんコンビニも存在しなかった。今から思えば不便な時代であったように思うが、この不便さが正月らしさの良さでもあったのだろうと思います。

7階の催し場では「羽子板」が陳列されていたようです。いまではあまり見かけませんし、”羽根つき”をして遊ぶ姿も見なくなりました。
 
あの頃見たテレビ番組 
バス通り裏 
 
 
♬~小さな庭を真ん中に、お隣の窓ウチの窓~”♬というテーマソングで始まるホームドラマ。都会の一般家庭を描いたドラマで、ここから後に活躍する多くの俳優が排出された。ほのぼのとした家庭生活の温かさを感じさせるドラマでした。 
 
ママちょっと来て 
 
千秋実と音羽信子が夫婦を演じて3人の子供を持つサラリーマン家庭を描いたホームドラマ。同じころ、アメリカの一般家庭を描いたドラマ「パパは何でも知っている」をモデルにして作られたらしい。

後から知ったことですが、このドラマの脚本を野末陳平や野坂昭如が書いていたということです。
 
 「ママちょっと来て」のモデルとなったアメリカのテレビドラマ「パパは何でも知っている」
 
 やりくりアパート
 
 
 
当時の「大阪放送テレビ(後の朝日放送)」が制作したコメディー。大阪の下町のアパートを舞台に繰り広げるドタバタコメディー。大阪の喜劇人が多く出演し、中でもアパートの住民で学生役を演じた大村崑は、この番組を契機に一大人気者になる。
その後「番頭はんと丁稚どん」や「とんま天狗」などでも人気者になって、「ちびっこ歌合戦」の司会で不動の地位を築くことに。

この当時は一番組一社のスポンサーで番組が制作されるのが一般的で、「やりくりアパート」は大阪本社の自動車会社「ダイハツ工業」が提供。この当時爆発的にヒットした軽三輪トラック「ミゼット」のコマーシャルをドラマの最後に入れていた。
大村崑と佐々十郎が「ミゼット!ミゼット!」と連呼して宣伝効果をより一層高めた。

この番組の脚本を書いたのが花登筺で、その後「番頭はんと丁稚どん」を手がけ、さらに連続ドラマ「細腕繁盛記」「道頓堀」「どてらいやつ」「あかんたれ」など続けてヒット作を手がけ人気作家となります。
 
ホームラン教室
 
少年野球チームをテーマにした子供向けドラマ。主役を務めた愛称アンパンを演じたのが小柳徹。同い年ということもあって注目してみていた。その後、子役としての活躍が終わった後もテレビに出ていたが、1969年僅か20歳で交通事故死した。 
 
 ジェスチャー
 
 
 NHKの当時の人気番組。水の江瀧子、柳家金語楼がレギュラー出演、小川宏アナウンサーが4代目として長く務めた。テレビ草創期にあって、ラジオでは絶対にできないテレビならではの番組だった。
柳家金語楼―明治34年生まれで当時57歳。水の江瀧子―大正4年生まれで当時43歳。
  
 ザ・ヒットパレード
 
 
当時、若者に絶大なる人気があったポピュラー音楽を紹介する歌番組。このころ歌番組と言えば歌謡曲が中心で、三波春夫、春日八郎、三橋美智也といった人気歌手が注目されていたが、ロカビリーブームと一緒に欧米の音楽が雪崩のように入ってきた。アメリカのポップスが中心で、コニー・フランシス、ポール・アンカ、ニール・セダカなどのヒット曲に日本語の歌詞を載せて歌う、いわゆるカバー曲が大流行した。日本の歌謡曲とは一線を画した番組で、楽団の指揮者スマイリー小原が、軽快なリズムに合わせ踊るような仕草で指揮する姿も特徴的だった。 
 
この頃、月刊芸能雑誌で「明星」と「平凡」の2誌があった。ほぼ毎月どちらの雑誌にも付録として「歌集本」が附いていた。上は昭和34年11月号の「平凡」の付録として附いていた歌集本の表紙です。
この年の2月にデビューして、人気が出始めた双子のデュオ「ザ・ピーナッツ」が表紙を飾っています。この時18歳。
デビュー当時まだ名前は「伊藤ユミ、エミ」という名で歌っていました。その後プロダクションの社長によって「ザ・ピーナッツ」となったそうです。
 
 
 ほぼ同じころデビューした双子の「こまどり姉妹」。こちらもデビュー当時は並木栄子、葉子という名で歌っていました。「ザ・ピーナッツ」より年齢は3歳上で、こちらは演歌調の歌が主で、衣装も和服で揃えていました。
 
 
 
「読売テレビ」では4時40分から映画で「プロレス世界選手権」のドン・レオ・ジョナサン対力道山の試合を放映しています。プロレスの中継が始まっていたかどうか不明ですが、この時は「映画」として放送していたようです。 
   
ドン・レオ・ジョナサンは本場アメリカからやってきた巨体のレスラー。当時、176センチ116キロのチャンピオン力道山に比べ、196センチ140キロのドン・レオ・ジョナサンが挑戦者。10月2日に東京蔵前国技館でタイトルマッチが行われました。ジョナサンはその後、何度も来日しジャイアント馬場やアントニオ猪木とも対戦。長くリング生活を送って2018年87歳で亡くなっています。 
 
当時のテレビ放送の時間は短く、放送開始時間も遅くから始まっていました。NHKは朝7時から。大阪テレビは11時25分から。関西テレビは10時から。読売テレビに至っては正午からの放送でした。 
これは当時まだ、テレビ局の番組制作能力が低かったこと、そして、番組を提供する出資者であるスポンサー企業の意識に、テレビでコマーシャルを流すことの宣伝効果に半信半疑だった。番組の制作やコマーシャルの制作は全て生放送で流されていた時代で、ビデオ映像として保存しておいて、決まった時間に放送で流すという技術が出来ていなかった時代でした。
 
 当時の放送番組は現在のように朝から晩までのべつ幕なしに放送されていたわけではなく、一日のうち一定時間には放送番組がなく、画面に丸い絵が出ていて、ピーという音が流れたり、音楽などが流れていたりする時間帯があった。
「テスト・パターン」と呼ばれていて、お昼の番組が無い時間帯に画面に表示されれていた。
番組欄では「パターン」と表記されていて、「関西テレビ」では昼に料理番組が終わった後、6時15分まで放送番組が無かった。
   
テストパターンの画像