定 点 観 測
伊丹飛行場拡張と現大阪空港滑走路周辺
昭和13年(1938)に滑走路が出来た伊丹飛行場は、戦時中軍用飛行場となり、敗戦で米軍に撤収された後、昭和33年(1958)に返還されることになります。この前後から国際空港としての拡張計画が持ち上がり、昭和36年12月に地元自治体と協定書を交わします。昭和41年(1966)12月には用地買収が決着します。翌昭和42年3月に拡張工事が着工され、昭和45年(1970)2月拡張工事は終了しました。
以下のモノクロ写真は、工事着工当初のもので、広大な農地の畝に深く刻まれたブルドーザーのタイヤ痕、千里川堤防に建設された工事用プレハブ小屋など、時勢が大きく動き出した時代の様子が写っています。昭和45年3月開幕予定の「大阪万国博覧会」に向けて、北摂地域が変貌していく時代のうねりを感じさせる風景です。
昭和42(1967)年4月頃の撮影

2006年12月28日更新
伊丹飛行場の滑走路に向け着陸態勢に入った航空機。千里川堤防から撮影
千里川堤防には工事用木材が運び込まれ、滑車を取り付けた櫓が建てられている。写真左に写っているのは梨高橋。
西の空に向けて飛び立った航空機とヒコーキ雲の軌跡
工事着工開始ギリギリ間際まで耕作されていた農地。手前には工事用車両が通行するための道路が出来ている
工事用ブルドーザーの上を通り過ぎる着陸の飛行機
東の空から着陸に入る飛行機と、千里川堤防に建てられた工事用滑車の櫓。
千里川堤防の東側に建てられた工事用プレハブ小屋。その上を下りて来る飛行機。
農作物の収穫を待たずに工事が始まった。
丁寧に整えられた畝の上をブルドーザーのタイヤ痕が通っていく。

すでに用地買収は決着し、もはや国有地となった土地だが、小作時代から何世代にも渡って耕してきた農地への愛着だろうか、立ち入りが規制されるギリギリまで栽培を続けた勝部の農民たち。その整えられた畝を工事用車両やブルドーザーのタイヤが踏みつけて行く。
農地を手放し大金を手にしたものの、これから先何をして生きて行くか、まだ模索中の人も多くいた。
広大な用地は柵と鉄条網で囲われて、もう誰も許可無く入ることはできない。工事車両用の道路が出来ている。
飛行場の拡張計画が具体化され、昭和36年12月には地元自治体と国との間で、上記の『大阪国際空港の拡張に伴う協定書』が交わされた。
これによって、周辺農家にある種のバブルがやって来た。農地を手放すことで莫大な現金が入る。それを当て込んで銀行や証券会社が頻繁に農家を訪れる。農地を売却した大半の農家は、戦後の農地改革で得たかつての小作農家の土地である。そして、農地を持たない周辺サラリーマン家庭には騒音公害だけが残った。
このとき、今日の勝部の過疎化は誰も予想はしていなかっただろう。
 
 勝部の田圃の上空を着陸態勢に入った飛行機。