近頃の勝部周辺のイベントから

2007年8月5日勝部地区恒例墓地清掃
勝部の墓を見て気が付くことは同姓が多いことである。地方の古い土地柄でもあり、元々農業中心の村であった勝部は、跡取りでない兄弟が結婚しても、そのまま勝部に留まる人が多かった。それは農業の担い手としての労働力を確保するための手段であり、そしてまた、収穫した農作物を身内で分け合うことで、お互いの生活基盤を安定させるための生きる知恵だったのかもしれない。それが本家から分家、更なる分家へと拡大することで、同姓が膨らんでいった原因であろうと思う。また村の中での婚姻関係や養子縁組の繋がりも多い。村の中で同姓が多くなったことで、その結果個々の家々を苗字だけで指すことが出来なくなり、いつからか『屋号』で指すことになった。恐らく明治の中期頃にはこの『屋号』で指す習慣は出来上がっていたと思われる。そして『屋号』で呼ばれる家は”本家”であることの意味を持っていた。本家は専業農家、分家はサラリーマンの傍ら農繁期には本家の農業を手伝う、という構図が出来上がっていた。戦後でも父の時代はほとんど『屋号』で呼び合っていて、苗字で呼ぶのは新たに流入してきた人たちが対象だった。
2007年8月8日更新
今年もまた幼馴染と再会することが出来た。同級生の森田さんと辻田さん(下)
森田さんも辻田さんも、数人のお孫さんのある”お爺さん”です。
50代半ば以上の人は見覚えのある顔だが、それ以下の年齢の人は誰が誰だか判らない。
幼馴染のお2人。学年で言えば私の一年上になる森田はるおさん(左)と、2年下の森田まさゆきさん。同姓であるが血縁関係はないようだ。子供の頃から「大治(だいじ)のはるおさん」と「妙見さんのまぁちゃん」と屋号プラス愛称で呼んでいた。
「妙見さんのまぁちゃん」と一緒に写真を撮るのは50数年ぶりのこと。50数年前の写真は下の通り。
昭和30年頃だろうか、当時隣に住んでいた中条さんの姉弟と。真中が「まぁちゃん」でその右が私。当時の隣家、森田一之さん(まぁちゃんのお爺さん)の門の前で。(写真上)
”大治のはるおさん”と写真を撮るのは初めてのことだ。はるおさんの50数年前は下の写真に
昭和30年7月の勝部地区子ども会の遠足で、猪名川から多田神社へ。前から2列目の右から2人目。大治のはるおさんは2歳下の弟と参加。
こちらも同級生のお2人。学年で私より2年上。右はいつも元気ハツラツ若々しい「えみちゃん」
墓掃除は朝9時から始まる事になってはなっているが、8時にはほとんど人が集まっていて、9時には終わっている。
このようにして、毎年2回お盆前の8月第一日曜日と、暮の12月第二日曜日に墓掃除が行われています。地元勝部の人たちが中心となりボランティアで行われています。遠く離れて住む人たちが、たまに先祖の墓参りに訪れる時、いつも奇麗に掃除が行き届いているのは、こうした地元の人たちの奉仕活動があってのことです。