定点観測・豊中あちらこちら
超 光 寺 幼 稚 園
岡町南にある超光寺幼稚園は地元でも歴史のある老舗の幼稚園です。我々団塊世代の多くがこの幼稚園の出身者で、55年前の古い卒園アルバムにはその後原田小学校、さらに豊中1中へと進んだ幼馴染の人たちの顔が並んでいる。同じ地元には原田元町に千草幼稚園があったが、どういう訳か超光寺幼稚園に通う園児が多かったようである。このページでは昭和30年の卒園アルバムに載った写真と、現在の超光寺幼稚園の姿とを対比してみようと試みました。

2009年12月26日更新
2013年 9月 2日追加更新
昭和30年(1955年)当時の正門。
超光寺幼稚園は阪急岡町駅から南西に約500メートルの住宅街の中にあります。この一帯は阪急電鉄の前身「箕面有馬電気軌道」が開通したと同時に沿線に宅地として開発された地域で、大阪市内に勤務するサラリーマン家庭のベッドタウンとして発展した閑静な屋敷町であります。
現在の正門前。55年前の面影は全くない。
この辺り一帯が宅地開発された当時、一区画100〜500坪程度の広さで売り出されていた土地も、長い年月とともに細切れにされ現在は一軒一軒の家の広さは小さくなり、道幅も狭い。
幼稚園の裏手は公園になっている。この公園が昔から園児たちの運動場となっている谷田公園で、ここは元々溜池で谷田池と呼ばれていた。
公園の真ん中を道路が横切っている。かつて池があった頃には橋が架かっていて、この橋の名が「萬歳橋(万才橋)」と呼ばれ、この辺り一帯も通称「萬歳橋」と呼んでいた。
昭和30年当時の谷田公園と園児たち(公園西側)。
昭和30年当時の園児の集合写真(公園東側)。拡大写真へ
当時の「岡町住宅経営(梶j」が宅地の販売に使用した地域の地図にも「谷田池」と「万歳橋」の名がある。地図左上には「南豊島尋常小学校分教場」(現在の原田小学校)。
「箕面有馬電気軌道(現阪急電車)」が開通したのが明治43年のこと、当時の岡町停留場の周りには豊中村役場、豊南高等小学校、郵便局、大阪区裁判所豊中出張所など行政施設が集中していた。岡町は当時豊中地方の行政の中心地だった。
谷田公園の片隅に「岡町住宅経営(梶j」の存在を記録する石柱が立っている。
「谷田池」に架かっていた「万歳橋」は谷田公園の真ん中を横切る道路になっている。
公園のすぐ傍の民家の塀のわきに「萬歳橋」の記録とおぼしき石柱が、かろうじて「萬」の字だけを残して地中に埋もれていた。
昭和36年在野の郷土史家田邊太市郎氏によって出版された「豊中市勝部史」によると、この「萬歳橋」北詰一帯が古代大陸から渡来した帰化人たちが一時期定住した土地で、「古勝部」と呼ばれ、その後この場所から西へ約800メートルの千里川沿いに移り住み、現在の勝部の村の原型となったとされている。
昭和18年当時の萬歳橋北詰一帯の風景(「豊中市勝部史」より)。
昭和30年の超光寺幼稚園卒園アルバム。
ここより下は辻田さんの「梅組」のアルバムからの写真です。
写真上「梅組」の教室風景
写真上「運動会」谷田公園にて
写真上「遠足」で「阪神パーク」へ
写真上「谷田公園」で「梅組」の園児たち・・・上の写真を拡大して見ることが出来ます
拡大写真