1970年 大阪万博の思い出
 2025年に大阪で万国博覧会が開催される予定だという。1970年に開催されて今年2020年は50周年になる。
1970年当時21歳だった私が半年間万博会場内で公式ガイドブックの販売に携わった経験から、当時一緒に働いた人たち、同じエリア内でパビリオンの職員として働いた多くの若者たちの姿を思い出しながら、自分で撮った写真で紹介したいと思います。

万博の開催運営に係わった偉い人たちはそれなりの年配の人たちだったが、現場で働く多くの若者たちは私も含め団塊の世代を中心とした18歳から23歳ぐらいの年齢が中心だった。

パビリオンのホステス、警備員、売店の売り子、レストランの従事者、会場内の清掃員、全てといっても差し支えない多くの働き手が私とほぼ同世代の若者だった、中には少数だったが夏休み期間中だけ高校生のアルバイトもいた。

彼らは半年間という限られた期間だけ雇われた労働者だった。多くは大学生のアルバイトが中心だったが、この仕事のためにそれまで勤めていた職場を辞めて、わざわざ万博の仕事を選んできた人もいた。

それまでの仕事とは違った経験をしたいと思う人、自分の語学力を試してみたいと思う人、多くの外国人と接してみたいと思う人など、目的はそれぞれ異なっていたが、一般の仕事に比べ未知の世界の魅力があったことは確かだ。

開催期間の半年が過ぎればそのあとの保証は何もない。それぞれの雇う事業所ごとに賃金や労働条件も異なる。
それでも応募者は多くいた。それだけ『万博で働きたい』という思いの若者が多かった。

今回のRenewalページでは私の周りで働いていた多くの若者たちにスポットあて、当時を振り返ってみたいと思う。
そして、70歳を過ぎた彼ら彼女らの今の姿を思い浮かべてみたい。

当時はカラーフィルムが高価で、現像料やプリント料もモノクロ写真に比べ数倍高かった。故に撮った写真の半分はモノクロである。

2020年 2月 3日 Renewal版ページ更新

 
 私が半年間働いたのは会場の北西部にある「ソ連館=ソヴィエト連邦館」の前にある「土曜広場」辺りである。
付近にはベルギー、メキシコ、オランダ、RCD、ギリシヤなどの外国のパビリオンが並んでいた場所だった。
 拡大地図の表示
   
 会場までの通勤には大阪市営地下鉄とその延長にある北大阪急行で「万国博中央駅」まで、3か月定期券が12,310円と結構高額だったと記憶している。「万博中央駅」は会場中央ゲートに近く、正面にシンボルである「太陽の塔」が顔をのぞかせている。

会場入り口には一般客とは別の従業員専用の入り口があった。ここで、「従業員入場証」を見せて通った。
会場への入り口は「中央口」のほか「日本館」に近い東口、ソ連館に近い北口、阪急千里線の万博西口駅近くの西口と4つの入場口が設けられていた。
 
 万博のシンボル「太陽の塔」の前にはひっきりなしにカメラを向ける人がいる。この写真を撮って帰ることが万博へ来たことの認証となるようだった。
 
 会場内のどこからでも一目でわかる「ソ連館」の建物、東西冷戦時代アメリカと世界を二分して覇権を争っていた。
 
 電通が発行した万博の公式ガイドブックとガイドマップは会場内に100台近い移動式屋台で売られていた。これらの販売を請け負ったのは地元の書店や新聞販売店で、それぞれ期間限定のアルバイトを雇って販売に従事させた。
私の場合は旭屋書店の派遣従業員として、10数名のアルバイトの管理、シフトの調整、出退勤のチェック、毎日の売り上げを集計して本社に届けるのが仕事だった。
   
 当時大阪府立大学の学生だった佃さんと野見さん。このお二人が中心となって仕事が回っていた。
 
 
 電通からは販売員一人一人に制服と帽子が貸与されていたがほとんどの人が『かっこ悪い』ということで着る人はいなかった。
 
 
 雨の日もあれば真夏の炎天下の日もあった。そんな時は通路やパビリオンの軒下を利用した。
 
 
 朝9時の開場から途中休憩をはさんで夕方5時まで、3月15日の開会当初は寒い日が多く、小雪がチラついた日もあった。また、台風シーズンには雹(ひょう)が降った日も・・・
 
 学校が夏休みに入ると高校生や中学生の制服姿が多くなった。限られた日陰の場所を求めて来場者がやってくる。中には歩き疲れた人が日陰のベンチで昼寝をする姿も・・・
 
 
 写真右に移っているのは北口から会場に入る階段。北口付近には大型観光バスの駐車場があり、毎朝9時の開場には横一列に手をつないだ警備員に先導されて来場者が入場してくる。
 
 会期途中からはガイドブックだけでなくスタンプ帳も売り始めた。とにかく万博のシンボルマークが付いたものなら何でも売れた。時には、チンピラ風の露店商人らしき輩が、偽造した万博のシンボルマークを付けた物品を無許可で売る姿もあった。
 
 真夏の一日が終わるころには疲れてへとへと・・・
 
 
 ガイドブックの販売に携わったのは圧倒的に女性が多かった。足の太さや長さに関係なく全員がミニスカート
 
 
 イラン・トルコ・パキスタンの3国共同館(RCD)の売店で働いていたのは高校生のようだった。トルコのお菓子やタバコがよく売れたという。
 
 真夏には冷たい飲み物がよく売れた。ソフトクリームが80円。三角形の紙パックの牛乳が50円。外に比べてやや割高だったが、それでもよく売れた。
 
 真夏は販売員も帽子は欠かせない。当時はチューリップハットが大流行
 
 数多くの飲食店が出店したが、そこで働く人たちも多くが半年間だけの雇用で、賃金や労働条件も店によって各々異なっていた。その為か、所々で労働争議が勃発した。写真に写っている「タッドステーキハウス」も会期中に従業員のストライキがあった。
 
 パビリオンの警備員も学生アルバイト。親しくなった警備員に頼めば長蛇の列でも知り合いを優先的に入館させることができた。
 
 
 
 パビリオンの日本人ホステスもほとんどが学生アルバイト。語学に多少自信があれば務まった。(ギリシャ館で)
 
 
 会場内の清掃作業員もアルバイト学生。彼らの仕事は閉館近くの夕方から始まる。土曜広場界隈を担当する彼とはすぐに親しくなった。私が仕事を終わって帰り支度をするのと、彼が仕事を始めるのがいつも同じ時間だった。
 
 当時はまだ物珍しい「動く歩道」。乗り口には赤い制服を着た職員が付いて利用者が躓かないよう注意していた。
 
 当時中国(中華人民共和国)とは国交がなく、中華民国(台湾)が出展していた。この時すでに80を過ぎていた蒋介石も健在で、パビリオン入り口正面には写真が飾られていた。
 
 中華民国の隣に大韓民国のパビリオンがあった。朴正煕政権下で出展した韓国は政治的にも重苦しい暗いイメージが強かった
   
 戦時下にあったベトナム共和国も出店。当時二十歳の学生だったナウさんとトウさんのお二人は、民族衣装のアオザイがよく似合う美人で評判だった。
 
 北欧の5か国が共同で出店した「スカンジナビア館」。金髪の美人ホステスが人気だった。
 
 スイス館の「光の木」。夜になって灯がともると一層際立って、多くの来場者を魅了した。
 
 アイルランド館で美人のホステスにカメラを向けたがシャッターを押す寸前にプィッと立ち去られた。
 
仕事をしていた場所に最も近いのがRCD館。トルコ・イラン・パキスタンの3か国共同館で、ここには日本人の女性スタッフが多くいて、顔見知りになった。 
 
 
 
 ほとんどの日本人スタッフが民族衣装に身を包んでエキゾチックな雰囲気があった。
 
 
RCDとは Regional Cooperation For Development の略で、1962年から1979年まで組織されていた。現在の「経済協力機構」の前身に当たる。
 
 「アフガニスタン館」で不躾にカメラを向けたので睨み返されてしまった。チョット気のキツそうなお姉さん。
 
 
 
 会場内各所に設けられた案内所。人当たりの柔らかな女性スタッフは美人揃い。『トイレどこですか?!』というのが一番多い問い合わせだったとか・・・。それにしても大人の迷子が多かった。帰りの集合時間間際になって慌てて駆け込んできたが、自分が入場した入り口を覚えていない人が多く、中央・北・西・東の4つある入場口のどこから入ったのかも知らない。『私の集合場所どこでしょう?』と聞かれても答えようがない。携帯電話もなかった時代でのことである。
 
 50年前の大阪万博を振り返って、一枚一枚写真にコメントを書きながら思うことは、同じエリアで働いていた多くの若者たちのことである。その後再会することもなくそれぞれが50年の歳月を生き抜いてきただろう。みんな一人一人分け隔てなく50年年をとって70歳になっているはずだ。まばゆいばかりのミニスカート姿の彼女たち。木下さんも豊永さんも若村さんも、今はすっかりお婆さんになっていることだろう。
できることならもう一度会ってみたい。